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1999-2000シーズン
【1999-2000総括】
長野オリンピック終了から2シーズン、早くも2002ソルトレークシティオリンピックの予選が始まりました。オリンピック出場の目標に向かって強化が進められるとともに、例年以上に多くの大会や活動が行われました。
男子日本代表は、2000世界選手権Aプールの極東予選、2002ソルトレークシティオリンピック1次予選、2000世界選手権Aプールの以上3大会がターゲットになりました。極東予選は若手主体のメンバー編成で臨み、中国・韓国を難なく破り、世界選手権Aプールの出場権を手にしました。しかし、オリンピック1次予選はデンマークに敗れ、オリンピック出場の道が断たれました。世界選手権では、予選リーグ、下位リーグともに白星を挙げられず、6戦全敗に終わりましたが、チェコやカナダといった強豪にくらいつくなど、白星まであと一歩のところまで迫ってきました。
日本ジュニア代表ですが、U20世代は2000世界選手権ジュニアU20選手権Cプールを1999年12月30日から2000年1月3日まで長野で開催。「優勝・Bプール復帰」を目指したものの5位に終わりました。初参加となった2000世界ジュニアU18選手権Bプールでは、最終的には4位に終わったものの、優勝のチャンスが2回あるなど、チームとしてはもちろんのこと、将来が楽しみな選手たちが少なからずおり、次回以降での飛躍を感じさせました。
女子日本代表は2000年4月3日から9日までカナダで行われた2000世界女子選手権Aプールに参戦。この大会で6位までに入ればソルトレークシティオリンピックの出場権を獲得できましたが、8位(最下位)となり、オリンピックの切符を手にすることはできず、さらにBプール降格になりました。
男子日本代表の強化に直結しているトップリーグである日本リーグ。前シーズン(1998-1999シーズン)は古河電工の廃部で揺れました。1999年6月には日本リーグは6チームで行われる方向性でした。しかし、7月下旬に行われた日本リーグ関係者の会合で、受け皿チームの資金調達がはかどっておらず、第34回日本リーグは5チームで行うことも想定した作業も進めることになりました。その後も、明るい声は聞こえず、受け皿チームは断念して幕引きとなる様相でした。ところが、「元気寿司」「日光猿軍団」「TKC」をはじめ地元企業が資金提供を名乗り出てくれたことによって勢いづき、さらに運営スタッフだけではなく、選手やファンが一丸となって各方面へ資金調達に奔走して運営資金を調達していきました。その結果、新チームの母体となる「栃木アイスホッケークラブ」が8月5日に発足、発表されました。新チームの誕生により第34回日本リーグは6チームで行われることになりました。
アイスホッケーに対する情熱と世界的活躍が評価され堤義明会長がカナダ・トロントにある国際アイスホッケー連盟(IIHF)の殿堂入りしました。アジア・オセアニア地区から初のことでした。また2000年を期して日本のアイスホッケー界に功績を残した方々を表彰しました。元理事や加盟団体、選手など27名が表彰されました。表彰は以下の通りです(敬称略)。
特別功労賞:河渕務(元副会長)
功労賞:山添義雄(元理事長)、鬼鞍弘起(元専務理事)、西浦清輝、岩瀬久春、大室広一、松沢国夫、朝日孝、宮崎宜弘、野部収、矢口正光(以上元理事)、大山石松、石井一男、伊澤平一、福田實、小川原則正、岡本昌三、成松峰則、大迫仁哉(以上加盟団体役員)、高木邦人(元レフェリー)、岩本武志、鈴木宣夫、外崎一馬、榛沢務、本間貞樹、矢島敏幸、若狭浩嗣(以上元全日本選手)。
レフェリー関係では10人のレフェリー・ラインズマンをIIHFからの指名を受けて各世界選手権などに派遣し、レベルの向上に勤めました。
【1999-2000評議員・役員】
評議員 任期:1999(平成11)年7月-2001(平成13)年6月
石井一男、岩瀬久春、大山石松、栗林延次、西田理、原田清治、引木孝夫、村上一元、松田一男、伊藤昭一郎、土方文生、荒井進、伊澤平一、佐藤憲保、堀口卓司郎、入江淳夫、高橋弘、小川原則正、藤井秀宣、岩崎博志、垣原功、格地啓方、鄭大和、山本昭仁、園部正敏、福田典夫、京谷佳明、監物鉱三、杉田秀夫、日沖裕策、加藤政明、山崎良二、室橋快男、穴場隆志、小谷直通、黒田成司、藤村治夫、岡本昌三、菱沼征夫、畠中耕司、木下嘉博、渡辺等、仲谷善助、花見守、諏訪守一、芳野俊、藤懸敏治、八木真、久米正秀、簗瀬研一、成松峰則、有澤駒雄、古賀正治、鈴木亮、山田満、桑原正彦、井原誠、黒木誠一郎、大迫仁哉、砂川隆禧、小池嘉紀、藤野文雄、中野浩一
| 会長 | 堤義明 |
|---|---|
| 副会長 | 田名部匡省、冨田正一 |
| 専務理事 | 冨田正一 |
| 常務理事 | 遅塚研一、片岡勲 |
| 理事 | 稲垣芳則、植木孝、大越孝彌、金谷輝雄、君塚晉、小松雄介、新川秀雄、鈴木孝則、清野勝、高橋(冨岡)明、田中幸元、千葉哲夫、萩原文男、吹越明徳、藤井忠光、桝川順司、宮崎康文、途中退任:指方幸子(2000年6月迄)、途中選任:徳岡肇(200年7月から) |
| 監事 | 島田繁、塚本芳治 |
【1999-2000日本代表】
男子日本代表の始動は1999アジアカップ兼2000世界選手権Aプール極東予選になりました。若手選手を国際試合に起用して評価するため、28歳以下の選手でチームを編成しました。大会前の八戸合宿では練習以外に、ロシアのトップリーグ所属のHCアムールと2試合行いました。9月3日から5日まで八戸で行われた1999アジアカップ。若手主体であっても力差を見せつけ、韓国に9-0、中国に5-0と連続完封勝利で、Aプールの出場権を確保しました。
2002ソルトレークシティオリンピック1次予選が2000年2月10日から13日までデンマークで行われました。1999アジアカップとは異なり長野オリンピック組などのベテランらも含めた布陣で臨みました。初戦ハンガリーに7-1、第2戦のオランダに5-3と2連勝で、デンマークとの全勝対決を迎えました。勝てば文句なし、引き分けでも得失点差でデンマークを上回り、オリンピック最終予選進出が決まる有利な状況でした。しかし、デンマークに先手を奪われてペースの握れなかった日本。それでも3-3の同点に追い付きこれからといった矢先、不可解な判定で失点。その後も追加点を奪われて3-7で敗れました。ソルトレークシティオリンピック出場は夢と消え、6年後の2006トリノオリンピック出場を目指すことになりました。
トリノオリンピック出場権獲得へ向けてスタートを切った男子日本代表は、2000年4月29日から5月14日までロシアで行われた2000世界選手権Aプールに参加しました。予選リーグではカナダ、チェコ、ノルウェーと対戦。カナダに0-6、チェコに3-6と世界の強豪に善戦。チェコ戦後には長野オリンピックで日本代表GMを務めたデーブ・キング氏もドレッシングルームに駆け付け「グッドゲーム」と選手をたたえたほどの好内容でした。しかし、勝負どころの第3戦のノルウェー戦で0-9と大敗して下位リーグに回りました。下位リーグではウクライナに0-4、オーストリアに3-5、フランスに2-7で敗れ16位。良い戦いはするものの、「最後の壁」を乗り越えられず、白星を手にすることができませんでした。
なお、この大会では、ウラジーミル・プーチン次期大統領(当時)と首脳会談を行っていた森喜朗総理大臣(当時)が日本対カナダ戦を観戦。清野勝日本チーム団長と冨田正一専務理事(兼IIHF副会長)が説明役を務めました。
日本ジュニアU20代表は1999年12月30日から2000年1月3日まで長野で行われた2000世界ジュニア選手権Cプールに参加しました。1988年の札幌開催以来、日本での世界ジュニア選手権の開催となりました。Bプール復帰が最大目標でした。試合方式は参加8チームを4チームずつの2グループに分け予選リーグを実施。各組同順位同士が順位決定戦を行いました。予選リーグ初戦のイギリス戦、終了6秒前に同点とされ2-2の引き分けが最後まで引きました。第2戦のリトアニアに6-3と勝ったものの、第3戦のスロベニア戦は引き分けでは1-2位決定戦に進出できないため終了1分半前から6人攻撃を仕掛けました。しかし、逆に失点して3-4と敗戦。1勝1分1敗の予選(B組)3位に終わり、5-6位決定戦に回り、エストニアに9-1と圧勝して5位で大会を終えました。
日本ジュニアU18代表は2000年4月3日から9日までラトビアで行われた2000世界ジュニアU18選手権Bプールに参加しました。昨季、アジア・オセアニアジュニア選手権で優勝したことにより、大会初参加となりました。試合方式は参加8チームを4チームずつ2グループに分け1回総当たりの予選リーグを行い、各グループ上位2チームと下位2チームに分かれ決勝リーグと下位リーグを行い、順位を決定しました。
予選の初戦はAプールから降格してきた優勝候補のノルウェー。先手を許し苦しい展開でしたが3-2で逆転勝ちの白星発進。第2戦のデンマークに3-0と完封勝ち、第3戦のイタリアには3-3と引き分け、予選1位(A組)で決勝リーグに進みました。決勝リーグは予選リーグの結果を持ち越すため、日本は1勝1分で決勝リーグに臨みました。決勝リーグ初戦のラトビア戦。この試合前に行われたノルウェー対オーストリア戦でノルウェーが勝利していたため、日本がラトビアに勝てば優勝となる大一番になりました。しかし、2-5で敗れて優勝の最初のチャンスを逃しました。最終戦のオーストリア戦。ノルウェーがラトビアに勝ち、勝点4でトップに立っていました。日本がオーストリアに勝つと勝点4で並びますが、ノルウェーに勝っている日本が上位となり、優勝になります。日本は2-0とリードを奪ったものの2-5の逆転負けで、2回目の優勝のチャンスを逃して4位に終わりました。
女子日本代表は8月に夏季強化合宿、12月に冬季強化合宿を実施して2000年4月3日から9日までカナダで開催された2000世界女子選手権Aプールに参加しました。8チーム中6位以上にソルトレークシティオリンピックの出場権が得られる大会でした。試合方式は参加8チームを4チームずつ2グループに分け1回総当たりの予選リーグを行い、各グループ上位2チームは準決勝へ進み、下位2チームは5-8位決定戦に回る方式で行われました。予選初戦のカナダに0-9、第2戦のスウェーデンに0-10と大敗。3戦目の中国にも0-3で敗れて5-8位決定戦に回りました。オリンピックの切符をかけたロシア戦にも4-8で敗れ、この大会でのオリンピック行きの切符を手にすることはできませんでした。最終戦となったドイツとの7-8位決定戦。2-2のまま延長戦でも決着は付かずPS戦に突入。PS戦もサドンデス戦までもつれましたが、最後は力尽き敗れ、8位に終わりBプール降格となりました。
【1999-2000主なJIHF主催大会】
第67回全日本選手権Aグループ(2000年1月11日~16日@東京・東伏見アイスアリーナ、国立代々木競技場)
前回同様の方式で行われ、参加6チーム(日本リーグ)を3チームずつの2グループに分けて予選リーグを行い、各組上位2チームが決勝トーナメント(準決勝、決勝)、予選3位同士が順位決定戦に回る方式で行われました。
予選A組は4連覇を目指すコクドが日本製紙クレインズを3-1、王子製紙を5-0で破り1位位通過。2位通過は日本製紙を2-0で下した王子になりました。予選B組は西武鉄道が雪印に6-3、日光アイスバックスに4-2と1位通過して2位はアイスバックスを4-3で下した雪印でした。
準決勝は王子が3-2と西武に辛勝。コクド対雪印はPS戦の末、コクドが勝ち上がりました。
決勝は先手を奪った王子が、一時は2-2の同点に追い付かれたものの、勝ち越しゴールからの4連続弾などによって、7-4でコクドを下して4シーズンぶり32回目の優勝を成し遂げるとともに、4季ぶりの無冠返上を果たしました。
第34回全日本選手権Bグループは2000年2月18日から20日まで群馬・伊香保で14チームが参加してトーナメント方式で行われました。決勝は群馬シールズが吉田産業を5-4で破り、初優勝を飾りました。
第19回全日本女子選手権Aグループ(2000年3月8日~12日@北海道・苫小牧)
前回とは異なり、前回の成績をベースに順位決定予備戦を行い、勝者4チームが上位リーグへ、敗者4チームが下位リーグへ進み、それぞれリーグ戦で順位を決める方式で行われました。
順位決定予備戦は前回上位チームが順当に勝ち上がり、上位リーグは岩倉ペリグリン(前回1位)、六花亭ベアーズ(同2位)、コクドレディ―ス(同3位)、六花亭マルセイズ(同4位)に、下位リーグはスポーツシステム(同5位)、御影グレッズ(同6位)、八戸レッズ(同7位)、札幌バッカーズ(B1位)になりました。
女王の座を争った上位リーグ。六花亭ベアーズは六花亭マルセイズを8-0、コクドレディースを5-1で下しました。岩倉ペリグリンも六花亭マルセイズを8-1、コクドレディースを6-2で破り、六花亭ベアーズと岩倉ペリグリンの全勝対決で雌雄を決することになりました。天王山とも言える大一番で両チームとも一歩も譲らず、3-3の同点のまま試合終了。「引き分けの場合、得失点差で順位決定」の大会規定により、得失点差「1」で、六花亭ベアーズが悲願の初優勝を飾りました。
第4回全日本女子選手権Bグループは2000年3月3日から5日まで栃木・日光で16チームが参加してトーナメント方式で行われました。決勝は釧路大進ベアーズが香椎シルキーズを2-1で下して優勝を飾るとともにAグループへの昇格を決めました。
第34回日本リーグ(レギュラーリ―グ:1999年10月16日~2000年3月5日・6チーム6回総当たり/プレーオフ・セミファイナル:2000年3月11日~19日・5試合3戦先勝方式/プレーオフ・ファイナル:2000年3月25日~4月2日・5試合3戦先勝方式)
第34回日本リーグを迎えるにあたり、6チーム中5チームの監督が替わる、過去に例のない動きが見られました。2連覇中のコクドは松田幹郎氏から運上一美氏へ交替。王子製紙は加藤正史ヘッドコーチ・鹿野善孝コーチ・高橋啓二コーチのトロイカ体制から高橋監督体制となりました。西武鉄道は中嶋正敬氏が退任して榛沢務氏が第28回日本リーグ以来2度目の監督就任。雪印は小山内薫氏から岩本裕司選手がプレーイングマネジャーとなりました。古河電工を引き継いだ新チームの日光アイスバックスはリーグ開幕直前まで監督不在で、伊勢征広選手がプレーイングコーチとして指揮を振っていましたが、ランディ・エドモンズヘッドコーチが誕生し指揮を振いました。第33回日本リーグと変化がなかったのは日本製紙クレインズの澤崎潤一監督のみでした。
レギュラーリーグは各チーム7試合を残した23試合終了時点の12月19日に一時中断。中断期間で、全日本選手権が開催されました。また日本代表を編成し、2002ソルトレークシティオリンピック1次予選に参加しました。
2月19日に再開して残り7試合を戦い、30試合の戦いを終えたレギュラーリーグ。コクドが他の追随を許さず1位を獲得しました。以下、2位・西武、3位・日本製紙、4位・王子、5位・雪印、6位・アイスバックスとなりました。
レギュラーリーグでは個人タイトルホルダーに特筆すべき結果がありました。西武のクリス・ブライト選手が得点・アシスト・ポイントの各部門のタイトルを獲得し「3冠王」に輝きました。過去に「3冠王」となったのは、岩本宏二氏が岩倉組時代の第2回リーグと西武時代の第5回リーグ、第11回リーグのヴャチェスラフ・スタルシノフ氏(王子)、第12回リーグの星野好男氏(国土計画)、第25、26回リーグの蝦名元樹氏(国土)の4人(6回)にのみでした。また日本製紙のDFジョエル・ディック選手がアシスト王を獲得(ブライト選手と同数)。DFがタイトルを獲得するのは初めてのことでした。
コクド対王子のセミファイナルはコクドが3連勝でファイナルへ進出。もう一つの西武対日本製紙は最終戦までもつれた結果、西武が3勝2敗で勝ち上がりました。ファイナルではコクドが初戦を4-0と快勝してレギュラーリーグの戦いからもそのまま覇権を手にするかと思われました。しかし、西武が延長・PS戦にまでもつれた第2戦を5-4で制すると、第3戦を4-2、第4戦を3-2で勝利して3シーズンぶり10回目の日本リーグの覇権を手にしました。
第55回国民体育大会(2000年1月30日~2月2日@青森・八戸)
成年の部は28都道府県が参加して決勝戦で北海道が東京をPS戦の末、5-4で破り6年ぶり26回目の優勝を果たしました。少年の部では14都道府県が参加して決勝戦で北海道が栃木を10-1で破り12年連続50回目の優勝を成し遂げました。
第5回全日本オールドタイマー大会(2000年4月15日~16日@宮城・仙台)
9チームが参加してトーナメント方式で行われました。決勝は青森県シニアと八戸シニアが対戦。青森県シニアが9-0で勝ち、初優勝を飾りました。
第72回日本学生氷上競技選手権・インカレ(2000年1月6日~9日@北海道・帯広)
29校が参加。決勝戦は2回戦で北陸、準々決勝で明治、準決勝で同志社を破った東洋と、2回戦で東海、準々決勝で大東文化、準決勝で早稲田を破った法政が対戦。一進一退の攻防を繰り広げた東洋と法政。2-2のままPS戦にもつれ込み、東洋がPS戦を制して5連覇(通算6回目の優勝)を果たしました。
第49回全国高校選手権・インターハイ(2000年1月22日~26日@栃木・日光)
27校が参加。決勝は2回戦で八戸工大一、準々決勝は北海、準決勝で白樺学園を破り7連覇を目指す駒大苫小牧と、2回戦で日大鶴ヶ丘、準々決勝で苫小牧東、準決勝で埼玉栄を破った釧路緑ヶ岡が2年連続で対戦しました。0-0で迎えた第2ピリオドに地力を発揮した駒大苫小牧が釧路緑ヶ岡を突き放して5-2で釧路緑ヶ岡を破り、7年連続19回目の優勝を成し遂げました。
第20回全国中学校アイスホッケー大会(2000年2月6日~9日@長野・軽井沢)
16チームが参加して行われました。決勝は1回戦で日光、準々決勝で八戸下長、準決勝で長野犀陵を破った釧路緑陵と、1回戦で神奈川県選抜、準々決勝で宮城県選抜、準決勝で軽井沢を破った苫小牧和光が対決。釧路緑陵が延長戦までもつれた戦いを3-2で制して4年ぶり2回目の優勝を飾りました。
第24回全日本少年アイスホッケー大会(2000年3月27日~29日@北海道・帯広)
小学生の部
12チームが参加。苫小牧選抜は2回戦で青森県選抜、準決勝で帯広選抜を破り決勝進出。札幌選抜は1回戦で大阪府選抜、2回戦で東京都選抜を準決勝でPS戦の末に釧路選抜を破り決勝へ進出しました。決勝では苫小牧選抜が4-0で勝利して2年ぶり16回目の優勝を飾りました。
中学生の部
12チームが参加。2回戦で東京都選抜、準決勝で苫小牧選抜を破った釧路選抜と、2回戦で栃木県選抜、準決勝で青森県選抜を破った札幌選抜との間で行われました。決勝では釧路選抜が札幌選抜を8-1で破り、3年ぶり14回目の優勝を成し遂げました。
第2回インライン全日本選手権Aプール(1999年9月3日~5日@長野)
Aプール決勝はチョコクレープとクールダウンで争われ、チョコクレープがPS戦の末、4-3で勝利して初優勝を飾りました。
【その他の大会・出来事】
3度目のNHL日本公式開幕戦の開催決定
2000年1月4日(日本時間1月5日)、NHLが2000-2001シーズンの日本公式開幕戦の開催を発表しました。その内容は2000年10月7、8日に「さいたまスーパーアリーナ」でナッシュビル・プレデターズとピッツバーグ・ペンギンズが対戦することになりました。ピッツバーグにはスーパースターのヤロミール・ヤーガー選手が在籍。NHLの日本公式開幕戦は2シーズンぶり3度目になります。
第1版:2026年6月2日・記
- <主な参考文献>
- 日本アイスホッケー年鑑 平成11年-平成12年 第19号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1999年10月号、2000年3月号、6&7月号(発行:ベースボール・マガジン社)