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1998-1999シーズン
【1998-1999総括】
長野オリンピックシーズンを受け継いだ1998-1999シーズン。日本のアイスホッケー界の拡大と発展が期待されました。しかし、経済の低迷などから期待されたほどスポンサーの獲得などには結び付かず、またファン層の大幅な拡大もままならず、苦しい1年となりました。
特に75年の歴史を持つ日本最古の名門チーム、古河電工の廃部・活動停止は、大きな衝撃となりました。古河電工の廃部やその後の動きなどを振り返ってみますと……。
シーズンがスタートしても廃部の動きは全く感じられませんでした。実際、チームスタッフが次季、外国人・日系人の獲得・調査のため、年末年始にヨーロッパへ足を運んでいるほどでした。
しかし、1999年1月12日に「古河電工廃部」という衝撃的なニュースが駆け巡りました。この日は第66回全日本選手権の初日で、古河は王子製紙との試合が組まれていました。チーム関係者の口は堅く、「廃部に関しては(14日の)記者会見で話します」と答えるのみでした。
1月14日にホームリンクのある栃木・日光で行われた記者会見において、廃部の詳細が明らかになりました。その主な内容は次の通りでした。
・業績悪化に伴い経費削減のため活動の停止。事実上、廃部。
・廃部の正式決定は1月11日に行われた常務会。
・選手に廃部を伝えたのは1月11日の19時、遠征先のホテル。
・3月いっぱいまでチームの引き取り手を探し、なかった場合は廃部。
・廃部後、スタッフ・選手の内、社員は職場に復帰。外国人を含む契約者は契約解除。
・4月の入社予定者の内、社員は入社、契約選手は要相談。
・電工リンクは閉鎖。
・今後、業績が上向いても部の再開はなし。
・チームの成績は廃部と無関係。
廃部決定を受けての戦いとなった全日本選手権。古河は36年ぶり(1963年・第31回大会)の3位となりました。
全日本選手権後の2月11日から再開された第33回日本リーグ。2月21日には地元日光でのファイナルゲーム(対王子)を行い、3月7日には73年の歴史に終止符を打つラストゲーム(対日本製紙クレインズ)を戦い、幕を下ろしました。
古河廃部の発表後の引き取り手探しですが、1月16日に「3月までは栃木県連盟が探し、その後は(日本アイスホッケー連盟が)8月を目途に受け入れ先を探す」と堤義明会長(当時)が発表しました。さらに3月18日には堤会長が日光を訪問し、「3月までの活動期間を延長し、市民クラブなども視野に入れて8月を目途に活動を続けてください」と発言しました。これを受け、「『ホッケークラブ・日光バックス』設立プロジェクト」が設置され、新チーム立ち上げの活動が続けられました。
新チーム立ち上げには、財源確保が必須でした。スポンサー探しの活動は続けられましたが、受け入れ先企業やスポンサー獲得は難航。5月上旬には、一部新聞紙上で「第34回日本リーグは5チームで開催」と報じられました。結論は先送りされていたものの、実際、日本リーグ各チームのメンバーで構成される日本リーグ運営委員会などでは、6チームで行う場合と、5チームで行う場合の2パターンが想定されていました。古河廃部後の新チームはどうなるのか、第34回日本リーグは何チームで行われるのかなど、次シーズン(1999-2000シーズン)のスタートに向け、タイムリミットが迫っていたことは間違いありませんでした。
6月になると日本アイスホッケー連盟(JIHF)内でも日本リーグは6チームで行う方向性が固まり、6月25日に行われた会見で「結論は出ていないが、日光に残せる可能性が高い。日本リーグは6チームのつもりでスケジュールを組みます。さらに、各チームに興行権を渡します」と堤会長が発表。第34回日本リーグは6チームで行われる公算が高まりました。しかし、その後、状況は二転三転。結果的に新チーム設立・日本リーグ参戦に漕ぎ着けたものの、そこへ至るまでの道のりは、険しいものでした。
各日本代表の強化ですが、長野オリンピックが終わり、長野前と同様とはいきませんでした。しかし、将来へつながるジュニアを中心とした「学生選抜」「バンタム」「ジュニア」「全日本女子」の夏季強化合宿をはじめ、各種強化合宿は継続して行われました。
男子日本代表では1997-1998シーズンの「長野オリンピックのデーブ・キングGM-ビヨン・キンディング監督」「1998世界選手権Aプールの清野勝監督」体制から新監督として辻占スティーブンケン氏が就任して新体制となりました。「辻占ジャパン」は世界選手権Aプールの出場権をかけた極東予選のアジアカップで中国、韓国を一蹴して出場権を獲得。本番への出場権を果たしました。また、1999年1月に行われた冬季アジア大会では若手主体のチーム編成で臨みました。
女子日本代表は冬季アジア大会では中国の壁を越えられず2位に終わりました。しかし、世界選手権Bプールでは優勝を飾り、Aプール昇格を決めました。
日本ジュニアU18代表は、アジア・オセアニアジュニアU18ディビジョン1で優勝して1999-2000シーズンは世界ジュニアU18選手権Bプールへ出場することが決まりました。
以上のように、女子日本代表と日本ジュニアU18代表の優勝は明るいニュースでした。特にU18代表の優勝は、国際試合の機会が少ない若手選手にとってはヨーロッパの強豪国と試合をする機会が増え、レベルアップにつながることと思われました。
これまでに例のない大きなルール変更も行われました。「センターラインパスの廃止」でした。1997年の国際アイスホッケー連盟(IIHF)総会で採択されていましたが、1998年6月に行われたIIHF総会で1998-1999シーズンから施行されることが決まりました。IIHF主催の世界選手権(男子シニア、女子、ジュニアなどを含む)やIIHF公認試合のアジアカップなどで新ルールが適用されました。
【1998-1999評議員・役員】
評議員 任期:1997(平成9)年7月-1999(平成11)年6月
石井一男、岩瀬久春、大山石松、栗林延次、西田理、原田清治、徳岡肇、村上一元、松田一男、伊藤昭一郎、土方文生、荒井進、伊澤平一、小針健治、堀口卓司郎、葛西稔、高橋弘、小川原則正、今堀日出男、安保隆一、垣原功、小野三男、堤康祐、福田典夫、園部正敏、長谷川清、高村理三郎、監物鉱三、杉田秀夫、日沖裕策、加藤政明、山崎良二、室橋快男、穴場隆志、小谷直通、黒田成司、藤村治夫、岡本昌三、若林三記夫、畠中耕司、坂口隆英、渡辺等、仲谷善助、花見守、諏訪守一、芳野俊、藤懸敏治、八木真、久米正秀、新川秀雄、成松峰則、有澤駒雄、古賀正治、鈴木亮、山田満、桑原正彦、井原誠、黒木誠一郎、大迫仁哉、砂川隆禧、松崎徹、藤野文雄、中野浩一
| 会長 | 堤義明 |
|---|---|
| 副会長 | 田名部匡省 |
| 専務理事 | 冨田正一 |
| 常務理事 | 遅塚研一、矢口正光、片岡勲 |
| 理事 | 植木孝、金谷輝雄、君塚晉、指方幸子、鈴木孝則、清野勝、高橋(冨岡)明、田中幸元、千葉哲夫、塚本進、西山晋、藤井忠光、桝川順司、松沢国夫、宮崎康文、山本光生 |
| 監事 | 大室広一、宮崎宜広 |
【1998-1999日本代表】
1998年8月、男子日本代表の監督に辻占スティーブンケン氏の就任が発表されました。「辻占ジャパン」の初陣は1998年9月4日から6日まで東京・東伏見アイスアリーナで行われた1999世界選手権Aプールの極東予選となる1998アジアカップでした。中国に15-2、韓国に9-2と力差を見せつけてAプール出場切符をつかみました。
年が明けた1999年1月には、韓国で開催された冬季アジア大会に参加。若手中心のメンバー編成で臨みました。予選リーグではクウェートに44-1、中国に7-0と圧勝して決勝リーグへ。決勝リーグでは韓国に13-1と勝利してカザフスタンとの決戦を迎えました。GK春名真仁を中心にカザフスタンの攻めを凌いだものの、1-1の引き分け。得失点差で敗れて2位に終わりました。
1999世界選手権Aプールは、5月1日から16日までノルウェーで行われました。Aプールでの1勝と来シーズンの出場権確保の10位以上を目標に臨みました。予選リーグではアメリカ、チェコ、オーストリアと対戦。アメリカに1-7、チェコに2-12と連敗。目標達成へ勝たなければならないオーストリアに2-4と惜敗して最終順位は16位に終わりました。
日本ジュニアU20代表は1998年12月30日から1999年1月3日までリトアニアで行われた1999世界ジュニア選手権Cプールに参加しました。前シーズン(1997-1998シーズン)、Bプールの最下位となりCプールへ降格した日本ジュニアU20代表の目標は、Bプールへの復帰でした。試合方式は参加8チームを4チームずつの2グループに分け予選リーグを実施。各組同順位同士が順位決定戦を行いました。予選リーグのリトアニア(4-1)、クロアチア(5-2)、オーストリア(7-1)の3試合とも全く危なげなく快勝。イタリアとの決戦に臨みました。イタリアとの決戦は終始優勢に試合を進め、数多くのスコアリングチャンスをつくったものの最後の詰めやツキにも恵まれず、1点が遠く0-1で敗れてBプール復帰は果たせませんでした。
ユニバーシアード日本代表は日本リーガー8人、大学生14人で編成し、1999年1月23日から30日までスロバキア・ポプラドで行われた第19回冬季ユニバーシアードに参加しました。参加9チームを5チームと4チームの2組に分けて予選リーグを行い、各組同順位同士の対戦で順位決定戦が行われました。なお5チームで行われた予選リーグで5位になったチームは順位決定戦を行わず、最終順位の最下位となりました。日本は予選リーグでクロアチアに7-3と勝ちましたが、スロバキアに2-5、ロシアに0-2、チェコに4-5と敗れ7位決定戦へ。そこで韓国に4-1で勝って7位となりました。前回は5位であったため、順位では下回りましたが、ロシアやチェコといった強豪相手に1点を争うゲームを展開するなど、内容的には次へつながる戦いでした。
アジア・オセアニアジュニア日本代表は1999年2月10日から13日まで日光・霧降アイスアリーナで行われた1999アジア・オセアニアジュニアU18選手権ディビジョン1に参加しました。参加国は日本の他、韓国、中国、オーストラリアの4チーム。1回戦総当たりで行われ、日本は中国に13-1、オーストラリアに15-0、韓国に8-4と勝利して2シーズンぶりの優勝を飾るとともに、来季(1999-2000シーズン)の2000世界ジュニアU18選手権Bプールの出場権を獲得しました。
女子日本代表は8月に夏季強化合宿、年末年始に冬季強化合宿を実施。1999年1月30日から2月6日まで行われた冬季アジア大会に参加。そして、1999年3月に開催された1999世界女子選手権Bプールに参戦しました。
8月に帯広で行われた夏季合宿を振り返り八反田孝行コーチ(当時)は、「日本アイスホッケー年鑑 平成10年-11年 第18号」で、長野オリンピック後の日本の女子アイスホッケーが大きな転機に迫られていることを報告しています。「選手たちは次の目標を見つけるために葛藤しています。ソルトレークシティオリンピックを目指す者。全く違う道を歩み出している者。目標を見つけることができないでいる者。そのような状況の中、目標が定まらずモチベーションの低い選手が合宿に多数おり、根本的にチームづくりの変更を余儀なくされました。そこで、チーム全体のモチベーションを高め、上手くなりたい、代表入りしたい、勝ちたいという思いを持たせること。そして何よりアイスホッケーが好きだということを呼び起こすことが目標となりました」(以上抜粋・要約)。
女子日本代表はシーズンを通して大きな課題を抱えました。
しかし、夏季・冬季の2回の合宿を通して今までやってきた戦術を基本にすることを確認。そして、打倒・中国を最大目標に臨んだ冬季アジア大会。初戦から最大目標の中国と対戦しました。互角の戦いを展開しましたが、1ピリ終盤の2失点が最後まで響き1-6で敗れました。続くカザフスタンには2-1と辛勝。最終戦の韓国には25-0と大勝して銀メダルを獲得しました。
長野オリンピックまでの国際大会(オリンピック、世界選手権、世界選手権予選を含める)では、ほとんどカナダなど格上相手との戦いを余儀なくされた女子日本代表。1999年の世界女子選手権から男子と同様にプール制が導入され、日本はBプールが戦いの場になりました。1999世界女子選手権Bプールは1999年3月21日から28日までフランス・コルマールで開催されました。参加チームはノルウェー、ラトビア、デンマーク、チェコ、フランス、スロバキア、オランダ、そして日本の8チーム。8チームを4チームずつの2グループに分け予選リーグを実施。各組上位2チームが準決勝に進み、その勝者同士が金メダルを争いました。予選リーグはノルウェーに4-0、ラトビア6-2、デンマークに6-0と3戦全勝で首位通過。準決勝のチェコ戦は一方的に攻めてはいたものの決めに欠けた苦しい展開となったものの2-1で逃げ切り決勝へ進出。ノルウェーとの決勝は伸び伸びと自分たちのプレーを展開して7-1と完勝。優勝とAプール昇格を手中に収めました。
インライン日本代表は1998年7月14日から19日までスロバキア・ブラチスラバで開催された1998インライン世界選手権Bプールに参加しました。1998-1999シーズンからA、Bプールに分かれて開催されることになったインライン世界選手権。Bプールの参加チームはスウェーデン、アルゼンチン、スロバキア、オランダ、イギリス、オーストラリア、チェコ、そして日本の8チーム。8チームを4チームずつの2グループに分けて予選リーグを行い、上位4チーム、下位4チームによる順位決定戦を行いました。予選リーグで日本はアルゼンチンに8-0と勝ったものの、スウェーデンに2-25、チェコに1-17と1勝2敗で、下位4チームの順位戦に回ることになりました。順位決定戦ではイギリスに8-4で勝ち、5位決定戦(対オーストラリア)へ進み、8-3で勝利し5位が確定しました。
【1998-1999主なJIHF主催大会】
第66回全日本選手権Aグループ(1999年1月12日~17日@東京・東伏見アイスアリーナ、国立代々木競技場)
前回同様の方式で行われ、参加6チーム(日本リーグ)を3チームずつの2グループに分けて予選リーグを行い、各組上位2チームが決勝トーナメント(準決勝、決勝)、予選3位同士が順位決定戦に回る方式で行われました。前述の通り、大会初日に古河電工廃部のニュースが駆け巡り、各チームの勝敗とともに、古河の結果も注目されました。
予選A組はコクドが雪印に7-3、西武鉄道に3-0と全勝で1位通過。2位は雪印を4-2で破った西武でした。予選B組は古河対王子製紙が5-2で古河の勝利。日本製紙クレインズ対古河は5-3で日本製紙の勝利。王子対日本製紙は7-4で王子が勝利して3チームが1勝1敗で並び、得失点差により1位・古河と2位・王子が決勝トーナメントへ進みました。
準決勝はコクドが王子に4-0と完封勝ち、西武が古河に5-1で勝ち上がりました。コクドと西武で争われた決勝は3ピリでは決着が付かず、2-2のままサドンデスの延長戦に突入。ユールクリスが決勝ゴールを決め、コクドが3連覇(通算7回目の優勝)を達成しました。
3位決定戦では3点を連取した古河が3-2で逃げ切り、第31回大会以来36年ぶりの3位になりました。
第33回全日本選手権Bグループは1999年2月19日から21日まで八戸・新井田インドアリンクなどで14チームが参加してトーナメント方式で行われました。決勝は食堂園キングスが八戸市庁を5-2で破り、初優勝を飾りました。
第18回全日本女子選手権Aグループ(1999年2月26日~28日@釧路・釧路アイスアリーナ他)
前回とは異なり、参加8チームによるトーナメント方式で行われました。決勝は1回戦で積水ハウスを19-0、準決勝で六花亭マルセイズを7-0で下した岩倉ペリグリンと、1回戦で八戸レッズを7-1、準決勝でコクドレディースを2-0で破った六花亭ベアーズが対戦しました。決勝では六花亭ベアーズに先手を奪われたものの岩倉ペリグリンが4-2で逆転勝ちして6連覇(通算10回目の優勝)を達成しました。
第3回全日本女子選手権Bグループは1999年2月19日から21日まで群馬・伊香保で16チームが参加してトーナメント方式で行われました。決勝は札幌バッカーズが4-2で釧路大進ベアーズを下して優勝を飾るとともにAグループへの昇格を決めました。
第33回日本リーグ(レギュラーリーグ:1998年10月3日~1999年3月7日・6チーム8回総当たり/プレーオフ・セミファイナル:1999年3月13日~21日・5試合3戦先勝方式/プレーオフ・ファイナル:1999年3月27日~4月4日・5試合3戦先勝方式)
昨季の日本リーグ(第32回)は長野オリンピックシーズンであったため、日系人を含む日本代表候補選手が原則、長野オリンピック終了まで日本リーグには不参加でした。しかし、今季リーグ(第33回)は開幕からフル参戦となりました。
レギュラーリーグは各チーム30試合終了時点の12月23日で一時休戦して2月11日から再開しました。休戦期間には全日本選手権の開催や日本代表を編成し冬季アジア大会への参加などがありました。また、前述の通り、古河電工の今季限りの廃部の発表があり、日本リーグの再開には少なからず影響がありました。
40試合を戦ったレギュラーリ―グ。頭一つコクドが抜け出し1位となりました。以下、2位・西武鉄道、3位・王子製紙、4位・日本製紙クレインズ。以上4チームがプレーオフへ進出。以下、5位・雪印、6位・古河の順となりました。
コクド対日本製紙のセミファイナルは2連敗と追い込まれたコクドが、その後3連勝で日本製紙を下してファイナルへ進出。西武対王子のセミファイナルは王子が3連勝で西武を破りました。
ファイナルでは初戦、王子が3-2と先勝。しかし、第2戦以降、コクドが3連勝。2シーズン連続9回目の覇権を手にしました。コクドは日本リーグの制覇によって全日本選手権との2冠も2季連続となりました。
第54回国民体育大会(1999年1月27日~31日@長野・軽井沢)
成年の部は28都道府県が参加して決勝戦で東京が北海道を6-2で破り2年連続18回目の優勝を果たしました。少年の部では14都道府県が参加して決勝戦で北海道が宮城を8-0で破り11年連続49回目の優勝を成し遂げました。
第4回全日本オールドタイマー大会(1999年4月10日~11日@宮城・仙台)
8チームが参加してトーナメント方式で行われました。決勝は栃木選抜と東京キングスが対戦。東京キングスが9-6で勝ち、2年連続2回目の優勝を成し遂げました。
第71回日本学生氷上競技選手権・インカレ(1999年1月6日~9日@栃木・日光)
29校が参加。決勝戦は2回戦で仙台、準々決勝で中央、準決勝で日本大を破った東洋と、1回戦で愛知学院、2回戦で北陸、準々決勝で明治、準決勝で法政を破った早稲田が対戦。先取点を奪われた東洋が2ピリに同点、逆転、追加点の3連続ゴールを挙げると早稲田の反撃を1点で食い止め、3-2で勝利して4年連続5回目の優勝を飾りました。
第48回全国高校選手権・インターハイ(1999年1月21日~24日@長野・軽井沢)
27校が参加。決勝は2回戦で八戸工大一、準々決勝は東北、準決勝で白樺学園を破り6連覇を目指す駒大苫小牧と、2回戦で光星学院、準々決勝で釧路江南、準決勝で苫小牧工業を破った釧路緑ヶ岡が対戦しました。駒大苫小牧が先取点を許したものの1ピリに5連続ゴールを奪うなど、8-2で釧路緑ヶ岡を破り、6年連続18回目の優勝を飾りました。
第19回全国中学校アイスホッケー大会(1999年2月5日~8日@岩手・盛岡)
16チームが参加して行われました。決勝は1回戦で東京都選抜、準々決勝で八戸第一、準決勝で日光を破った釧路鳥取と、1回戦で千葉県選抜、準々決勝で八戸湊、準決勝で軽井沢を破った釧路景雲が2年連続で対決。釧路鳥取が6-4と逆転勝ちを収め、前回の雪辱を果たすとともに6年ぶり6回目の優勝を果たしました。
第23回全日本少年アイスホッケー大会(1999年3月26日~28日@群馬・伊香保)
小学生の部
13チームが参加。釧路選抜は2回戦で大阪府選抜、準決勝で東京都選抜を破り決勝進出。帯広選抜は2回戦で九州選抜を、準決勝で苫小牧選抜を破り決勝へ進出してきました。決勝では釧路選抜が3-1で勝利して2年ぶり7回目の優勝を飾りました。
中学生の部
13チームが参加。2回戦で青森県選抜、準決勝で釧路選抜を破った札幌選抜と、2回戦で福岡県選抜、準決勝で帯広選抜を破った苫小牧選抜との間で行われました。決勝では札幌選抜が苫小牧選抜を5-4で破り、2年連続2回目の優勝を成し遂げました。
第1回インライン全日本選手権Aプール(1998年6月19日~21日@長野・野辺山)
3年前に国際アイスホッケー連盟(IIHF)がインラインホッケーを公認したことを受けて日本アイスホッケー連盟(JIHF)内にインラインホッケー委員会がつくられました。「オープン大会」から名称を改めるとともに、A、B、女子の3グールに分けてインラインホッケーの第1回の全日本選手権が行われました。Aプール決勝はトルネードスとノバエクスプレスで争われ、トルネードスが6-1で勝利して初代チャンピオンになりました。
【その他の大会・出来事】
国際大会
1999年1月23日から26日まで東京(国立代々木競技場)と名古屋(レインボーアイスアリーナ)で開催された日本代表対カナダの国際大会。冬季アジア大会への向けての強化の一環として行われ、日本代表は4-6、3-6、4-6と3戦全敗でした。
NHL「GAME One JAPAN 1998」開催
1998年10月10、11日、東京・国立代々木競技場で、「GAME One JAPAN 1998」が行われました。カルガリー・フレームス対サンノゼ・シャークスの2試合が行われ、世界のトッププレーを堪能しました。
NHLのウエイン・グレツキー選手が引退
NHLの名プレーヤー、ウエイン・グレツキー選手が現役引退。1999年4月18日、ニューヨーク・レンジャーズ対ピッツバーグ・ペンギンズ戦がラストゲームになりました。「ザ・グレート・ワン」「カナダの至宝」などの愛称がついたグレツキー選手のプロフィールを簡単に紹介しますと……。1961年1月26日、カナダ・オンタリオ州生まれ。1979-1980シーズンにエドモントン・オイラーズからNHLデビュー。1998-1999シーズンに引退するまでエドモントン、ロサンゼルス・キングス、セントルイス・ブルース、ニューヨーク・レンジャーズでプレー。NHL通算1,487試合894ゴール1,963アシスト2,857ポイントをマーク。スタンレーカップを4回獲得するとともに、61のNHL記録をマーク(引退時点)しました。カナダ代表としては、世界ジュニア選手権(U20)に1回出場して6試合8ゴール9アシスト17ポイントをマークして銅メダルを獲得。オリンピックは長野大会の1回出場して6試合4アシスト4ポイントをマーク。世界選手権に1回出場して10試合6ゴール8アシスト14ポイントをマークして銅メダルを獲得しました。その他、カナダカップ、ワールドカップなどにも出場して複数の金メダルを獲得しました。
第1版:2026年6月2日・記
- <主な参考文献>
- 日本アイスホッケー年鑑 平成10年-平成11年 第18号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1998年12月号、1999年3月号、5月号、8・9月号、10月号(発行:ベースボール・マガジン社)