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レジェンド座談会_Vol.2 大坪利満 vs. 黒川秀明 vs. 本間照康
王子製紙や日本代表で活躍したお三方が60分オーバーの熱きトーク‼
1925年(大正14年)12月にアイスホッケー同好会が結成され、翌1926年(大正15年)にチーム名を「イーグル」として産声を上げた王子製紙アイスホッケー部。その後、苫小牧製紙、新王子製紙、王子イーグルスなどの名称を経て、現在、レッドイーグルス北海道として、トップリーグであるアジアリーグをメインの戦いの場として活動している。
チーム誕生以来、全日本選手権37回、日本リーグ13回、アジアリーグ4回の優勝を数える。また、オリンピックや世界選手権などで日本代表に選出され、世界の列強と戦ってきた選手も少なくなく、日本のトップチームの道を歩んでいる。
1972年の札幌オリンピックの6年前、1966年に日本リーグが誕生。日本リーグ誕生の前後に王子製紙入りし、チームの主力の一人として戦った大坪利満氏、黒川秀明氏、本間照康氏のお三方に、王子製紙や日本代表の思い出などを語り合っていただいた。
写真左から本間照康氏、黒川秀明氏、大坪利満氏
※この座談会は2026年7月18日に実施しました。
大坪利満◎Toshimitsu OTSUBO
1944年4月4日生まれ。苫小牧東高校から王子製紙入り。日本リーグは第1回から第13回リーグまでプレー。ベスト6(GK)には4回(第3、4、7、8回日本リーグ)選出される。男子日本代表として世界選手権に出場したのは1967年オーストリア・ウィーン大会(Cプール)が初選出。オリンピックには3回(1968年グルノーブル、1972年札幌、1976年インスブルック)、世界選手権は7回出場。1973年オーストリア・グラーツ大会(Bプール)では大会ベスト6(ベストGK)にも選ばれた。引退後、2シーズンは専任コーチに就き、その後、1988-1989シーズンから3シーズン、アジア・オセアニアジュニア日本代表監督も務めた。
黒川秀明◎Hideaki KUROKAWA
1944年5月8日生まれ。苫小牧工業高校から王子製紙入り。日本リーグは第1回から第8回リーグまでプレー。日本リーグ通算81ゴール、42アシスト、123ポイントをマーク。第1、3回日本リーグではベスト6に選出。また第3回日本リーグではMVPを獲得するとともにアシスト王とポイント王に輝いた。男子日本代表として世界選手権は1967年のオーストリア・ウィーン大会(Cプール)が初選出。オリンピックは1回(1972年札幌)、世界選手権には5回出場。1967年と1969年の世界選手権(Cプール)では得点王とポイント王に輝いた。現役引退後はレフェリーを務め、国際大会や日本リーグなどで笛を吹いた。その後、日本アイスホッケー連盟レフェリー委員長も務めた。
本間照康◎Teruyasu HONMA
1949年3月7日生まれ。苫小牧東高校から王子製紙入り。日本リーグは第2回から第13回リーグまでプレー。日本リーグ通算65ゴール、57アシスト、122ポイントをマーク。男子日本代表として世界選手権は1969年のユーゴスラビア・スコピエ大会(Cプール)が初選出。オリンピックに1回(1972年札幌)、世界選手権に6回出場。現役引退後は、国体の北海道チームの監督などを務め、現在は苫小牧東高校アイスホッケー部OB会長を務めている。
- アイスホッケーを始めたことについて
- 初めてのGKでは、全部、目をつぶっていた。怖くてやっていられなかった。 (大坪)
大坪氏、黒川氏はともに1944年生まれの同期。本間氏は2人から4学年下の1949年生まれ。大坪・黒川両氏の同期には引木孝夫氏らが、本間氏の同期には元西武鉄道の榛沢務氏らがいる。
まずはアイスホッケーを始めた頃の話から記憶の扉が開いた。
――王子製紙や日本代表の話など、いろいろ話していただけますと幸いです。
まずは50年以上前になりますが、皆さんがアイスホッケー少年となった頃の話からフェイスオフとしましょう。
黒川 記憶が定かではないからね(笑)。
大坪 もう50年以上前の話だよ(笑)。
子どもの頃、アイスホッケーに関しては、何も分からなかった。今のようにネットなどがあるわけではなく、新聞など限られたところからしかニュースは入らなかったからね。
当時、勇払には今の日本製紙、(山陽)国策パルプの工場があって、アイスホッケーチームはBクラス。日鐵(新日鐵)室蘭と定期戦をやっていた。子どもの頃はそれを見ていた程度だった。
黒川 テレビはないし、アイスホッケーの情報は新聞で見るくらい。外国チームが来たこともほとんどないしね。確か、苫小牧に初めて来た外国チームはメッツだったかな? オヤジに連れられて見に行った記憶がある。
アイスホッケーではないけど、スケートは早くから滑っていた。
大坪 テル(本間照康)の話を置いておいて(笑)、たまたまだったけど、勇払中学校の時にチームをつくった。苫小牧には東中学校と弥生中学校の2チームあって、オレやクロ(黒川)らが2年の時に定期戦があった。それで初めてアイスホッケーの試合に出たんだ。
黒川 オレら勇払中学校は白いズボンにランニングシャツ。
大坪 シャツに「勇払」って書いて、その試合1日だけのチームだった。
黒川 アイスホッケーを始めたのは中学2年のその時でしたよ。試合の時に道具を借りて、人を集めてね。苫小牧東中、弥生中にコテンパンにやられた。
3年になって初めて弥生中に勝ったのかな。東中とは3-4の接戦で、みんなにびっくりされてね。オレらは出っ放しだった。弥生中に勝って、東中と良い試合やって。それで、ちょっとアイスホッケーやってみようかなと……。
大坪 野球でキャッチャーをやっていたので、2年の時にオレは1試合だけGKをやった。
黒川 (大坪は)GKはできるだろう? GKをやってくれという感じだね。
大坪 初めてのGKでは、(シュートは)全部、目をつぶっていた。怖くてやっていられなかった。東中に13点入れられたんだ。でも、一発だけグローブに入った(苦笑)。
3年の時はDF。人がいないから1回も交代しなかった。(勇払中は)そんなチームだった。
- 高校時代について
- アイスホッケーやっていれば外国に行けるかな。単純だったね。 (黒川)
大坪氏と本間氏は苫小牧東高校、黒川氏は苫小牧工業高校へ進学した。苫小牧東高校は田中正監督の下、インターハイでは第10回大会から第14回大会までの5連覇を含め第17回大会までに10回の優勝を遂げた。大坪氏在学中には3回(第10、11、12回大会)の優勝、本間氏の在学中には2回優勝(第14、16回大会)していた。
一方、苫小牧工業は三原監督の下、インターハイでは第4回から3連覇。ところが黒川氏在学中は3年連続して全道大会1回戦で苫小牧東と対戦していずれも敗退。1、2年生の時(第10、11回大会)はインターハイ出場ができなかった。3年生(第12回大会)ではインターハイ出場を果たしたもののベスト8止まり(日光高校に敗戦)。黒川氏が高校日本一を得ることはできなかった。
しかし、当時、両校とも高校アイスホッケー界では日本屈指の実力校であったことは疑う余地はなかった。
――高校生になって本格的に始めるきっかけは?
大坪 中学校時代は話した状況ですからね。高校に入ってからアイスホッケーを始めたようなものだから、初めはアイスホッケーへの思いはあまりなかった。
黒川 高校ではなんかスポーツやりたいと思っていた。最初は野球をやりたかったけど、背はあまり大きくないし、すると残るは卓球とアイスホッケーぐらい(苦笑)。
アイスホッケーは他の人があまりやってないから、「いいかな」といった感じだったね。ちょうど本間(信一)さんや高木(邦人)さんが、王子製紙でアイスホッケーをやっていて、海外へ行ったという話が新聞に出ていた。アイスホッケーやっていれば外国に行けるかな。単純だったね(苦笑)。
大坪 (苫小牧)東高校に入っても、(アイスホッケーを)やる気はなかった。でも勇払中学校を卒業した先輩から、「やるべ、やるべ」としつこく引っ張られてね。それで最初はDFをやろうと思っていたのよ。でも、毎年一人はGKをつくっていたから、1年生の中から誰かがGKをやらなければならなくなった。その時、「(大坪は)GKをやったことがあるだろ」となったわけさ。
GKになると防具は学校が貸してくれるから、金がかからなかった。それでGKやろうとなって、高校に入ってから、初めて(専門に)GKをやった。
黒川 大坪とは、ガキの頃から一緒だったから東高校入ってGKやると聞いてびっくりした。まさかそのまま続けると思わなかった。でも、1年経って見たら、上手くなっていて、びっくりした。
(苫小牧工業)高校に入って初めてユニフォームをもらったけど、昔は毛糸でしたからボロボロ。ボロボロでもユニフォームは着たことがないからうれしかった。それが高校での第一印象でしたね。
――大坪さんや黒川さんとは年代が少し下がりますが、本間さんはどうでしたか?
本間 兄貴(信一)が(アイスホッケーを)やっていたから、それをずっと見ていたし、小学校ぐらいからスケートは滑っていました。
中学は(苫小牧)東中で、クラブがあったからそこからプレーして、東高でもアイスホッケーとなった。
- 王子製紙入りについて
- 王子製紙から呼ばれるなんて思わなかったから、最敬礼でした。 (大坪)
大坪、黒川両氏が王子製紙入りする前、昭和30年代前半の王子製紙アイスホッケー部は、「労働争議」が大きな影響をもたらし、チームは弱体化した。しかし、西浦清輝監督が5カ年計画を立て、再建に乗り出した。昭和40年(1965年)までにSTV杯実業団選抜、NHK杯、国体、全日本実業団選手権、全日本選手権の5冠を取ることを目標に掲げた。年々、強化は実を結び、1964年には4冠を取るまでに回復した。1963-1964シーズンに大坪氏、黒川氏、引木氏が入部。さらに本間氏も1967-1968シーズンにチーム入り。王子製紙は日本のトップチームとして君臨していく。
――高校生活の3年間を過ぎると就職や進学など、大きな選択があります。王子入りを選択したわけですが、その経緯は?
大坪 最初は、チームもあったから勇払の国策パルプへの就職でした。それが、不景気で「採らない」となって、就職先ではなくなった。
次は白老の大昭和製紙へ行こうかと思って、担任の先生とも話をして、試験を受けに行くことになっていた。
そうしたら、王子の監督の西浦(当時)さんが、夏にトレーニングをしていたら学校に来てくれたんです。すると田中先生に「王子の西浦監督が来ているから」と呼ばれて、それで西浦さんから、「大坪君、来ないか」と言われたのです。うれしくて、うれしくて、本当にびっくりしてね。王子製紙から呼ばれるなんて思わなかったから、「ありがとうございます。よろしくお願いします」と最敬礼でした。
西浦さんからは、「ただ、酒を飲んだりタバコ吸ったりして、警察沙汰だけにはならないでくれよ」とだけは言われました(笑)。
勇払に帰ったら、家族も喜んでくれてね。西浦さんは、私にとってもう絶対的存在だったですね。
黒川 工業高校でしたから、国策パルプとつながりがあって、「(就職先は)国策に決めたからな」となっていました。
その後、アイスホッケー部の三原監督が、王子の西浦さんと師弟関係で、「黒川を王子に寄こせ」と西浦さんから言われたとなってね。うれしくて、うれしくて……。
本間 王子か、岩倉か、はたまた市役所も……。いろいろ話があったけど、勉強も好きではないし、就職するかとなって、兄貴が王子にいるしね。その関係で「王子に行け」と周りに言われて、「じゃあ、王子に行きます」といった感じでしたね。
- 王子製紙アイスホッケー部について
- 黒川さんと組んでセンターをやると、なんでパスを出さないのと怒られた。 (本間)
1972年の札幌オリンピックの6年前、日本代表の強化やアイスホッケーの普及、オリンピックへの機運醸成などを目途に日本リーグが1966年11月にスタートした。第1、2回日本リーグで岩倉の後塵を拝した王子製紙であったが、第3回日本リーグでは7勝1分の無敗で初優勝。続く第4回日本リーグも制した。その後、王子製紙は西武鉄道や国土計画(コクド)などと切磋琢磨するとともに、強豪チームの地位を築き続けた。
――入部した王子製紙アイスホッケー部はどうでしたか?
本間 兄貴が王子にいて、兄貴のアイスホッケーを見ていたので、選手はみんな知っているんですよ。「王子に入ります。よろしく」という感じでした。違和感もなく、みんなに怒られるんだなと思っていた(笑)。
大坪 高校3年の時に王子リンクで、西浦さんに、「朝練習するから学校に行く前に来られたら来い」と言われましたね。そして10日間くらい一緒に練習したかな。(体の)あっちこっちにパック当たって痛かったですよ。東高校の防具は先輩も使っていたお下がりで、良いものではなかった(一同大笑)。
実業団の選手は、まともにシュートしてくるからね。実業団のシュートは受けたことがない。受けると痛くても、痛くないような顔をしないとなんないですよ。ここで痛い顔をしたら、もうダメだと言われて、終わりだなと思って我慢してね。
黒川 当時、GKの防具は綿みたいなものだから、濡れたら重いよな。
本間 その頃はそんなに良い防具はなかった。
黒川 あればいい方(笑)。
大坪 だから、逆に言えば、当たったら痛いからね。キャッチングは上手くなったかもしれない。取ればいいわけさ。
藤原勝平さんが監督になった時、「当たって、痛かったら取ればいいだろう」と言われた。「何、この野郎(怒)!」と思った(笑)。
黒川 大坪とはずっと一緒にやっていて、初めて海外に行ったのも一緒だった。小さいからキャッチングで端から端まで飛ぶでしょ。(海外でも)お客さんが喜んで一番人気があった。
大坪 あれはね。野球をやっていたからね。
実は、卓球は左右両サイドどっちも使えるんですよ。GKは、片側(右)は良いんですけどね。それで、卓球は良いなと思ったので、会社に入ったら職場に卓球台があって、左サイドを練習したんです。そうしたら王子の卓球部とラリーをやっても結構できた。ただしカットボールは対応がダメでした。練習にならないから、スマッシュをしてもらったね。
黒川 大坪は近眼で奥目。よくあんな瞬間的なものが見えるなと思っていた。動体視力が良いんですね。
大坪 練習したんです。
黒川 高校3年の時、練習に呼ばれるんですよ。そしてスケーティングを何十分と練習させられたんです。一番違ったのはスケーティングですね。ついて行くのが精一杯で大変だったよ。「よくこんなのやってるな」と思うくらいだった。でも、だんだんやっていくうちに少しずつ慣れてきてね。
大坪 クロは頭が良いんですよ。練習で、どうやったらちょっとした隙間にシュートが入るかってことを考える男。普通はあまり考えないですよ。
(GKの)空いているサイドを狙ったりするでしょ。でもボクはずるい方だからね。(GKが)わざと空けて待っていることはあるでしょ。すると、クロは空いてない方を狙うんですよね。
話をすると、10センチぐらい空いてれば入れられるんだっていうのです。
練習でシュートを受けるでしょ。駆け引きがすごいのです。「クロ、どうして(オレの動きが)分かった?」と聞くと、「さっきはこうだったからな」と。次は別なことやってくるんですよ。もう凄かったですよ。体が小さいからいろいろなことをやっていた。
また例えばスライドシュート、パスみたいのが来るでしょ。スティックを両手できっちり持って角度を変えるわけではない。軽く持って、パックが来たらブレードにあたって微妙な角度でパックが上がって行くようにする。そうするとGKは取りにくいからね。そういうことをやるわけ。
黒川 フェイントを入れながら打っていくんです。ワンテンポ遅らせて打ったりね。大坪と練習をやって入るとなったら、他のGKはもっと入るからね。
大坪 クロと(引木)孝夫のシュートは全く違った。この2人のシュートを受けていたら、他のチームの選手のシュートは全部受けられると思った。練習をやっていて、真剣に受けようと思ったら、この2人だけで良かったと思う。
黒川 オレは背は小さいし、力がない。どうしたら対等にできるか。いろんなことを考えて他の人がやらないことをやるしかないなと思っていた。
だから、スティックはガッチリ持たないで手首を自由に動かせるような形で、スティックを氷上ポンと置いてれば勝手にゴールに入っていくんですよ。チップやリバウンドで入れるのが結構多かった。得点になるからちゃんとオレに触っていけってね(笑)。
大坪 でも、クロはあまり守ったことがほとんどないからね(笑)。1回だけ2人がペナルティーになって3人になった。FWで頼りになるのがクロだけになった。クロはウィングだったけど、守ってくれたのは1回だけ。まず守らない男。
でも、それで良いんだよ。攻めでは頼りになったからね。いつも思ったけど、4人で守れば良い。攻めた時、入れれば良いのだとね。
黒川 孝夫が「お前は下がるな。守らなくていい。お前は前へ行っていろ」ってね。
大坪 そうそう、孝夫や鈴木孝則さんは、フェイスオフではサインを出していた。下げようとか、あっちへ出せよとか。下げたら、クロがライトウィングだからね。あっちに出すから走れとか。それでやったんです。
それを安心していたら、まともにフェイスオフから一発で入れられたこともあった(苦笑)。
黒川 そういうこともあったけどね。でも孝夫のフェイスオフは強かった。言う通りに動いて行くと、ポーンと出て来るのです。
孝夫は海外へ行っても、あいつは強かった。孝夫と組んでオレが一番得をしたね。
――強者どもの先輩がいる中でどうでした?
大坪 多分、大変だったよな。
黒川 テルが若手の中で一番使える選手だった。1年目から若手の中では出ていたんですよ。
本間 世界選手権では黒川さんと一緒に行って、黒川さんと組んでセンターやると「オレがフリーにいるのになんでパスを出さないの」と怒られたことが結構ありましたよ(一同大笑)。
黒川 孝夫がケガして行かなかった時に、テルがセンターをやっていたんだよな。
大坪 孝夫と組んでいる時と、テルと組んでいる時は全然違うからな
黒川 でも結構入れているよな。
本間 はい。
黒川 昔はアイスホッケーのレベルの違いが結構あったからなんとかなった。一人でもなんとかできたけどね。今はね。レベル上がっているでしょ。だから、今の選手はやっぱり可哀想だな。
- 印象に残る選手について
- メルとハービーの2人と一緒にやった時のアイスホッケーは面白かった。 (本間)
――王子でもいいですし、他のチームでも構いません。皆さんが印象に残る選手は?
大坪 他のチームの選手で、ちょっと受けにくいなと思ったのは、岩倉・雪印の伊藤実。タイミングが違ってパッと早くなったりワンテンポ遅くしたり、上手かった。こん畜生と思ったよね(笑)。
札幌での結婚式に呼ばれて一言ご挨拶と言われた時に、「お前は嫌いだ」って言ってやったの(一同笑)。あいつはちょっと違ったね。
あとメル(若林仁)やハービー(若林修)、岩本(宏二)さん、星野(好男)とかいたけど、何とかなったね。星野が1年目か2年目の時にペナルティショットがあってね。ペナルティショットで星野が出てくるかなと思った時に、メルが出てきた時、「しめた!」と思った。メルの癖は分かっているからね。
癖が分からなかったから新人で一番入れられているのが国土の清野(勝)。1試合で3点入れられている。これはオレのアイスホッケー人生の汚点かな(笑)。
練習をやっていて、クロと孝夫のシュートさえ受けられれば、他のチームの選手は受けられる。あとは、ゴール前でごちゃごちゃやっていたら、小舘(正利)や鹿野(善孝)らを注意していれば良い。(本間)貞樹もいたね。でも彼らの癖さえ覚えたなら大丈夫。そんな感じで練習はやっていたね。
黒川 テルの下の年代でゴール前でこちょこちょとするのは小舘や鹿野。
大坪 多分あいつらもね、クロの真似をしていると思う。クロのやっていることを見ている。
黒川 岩倉で言えば、岩本さんと岡島(徹)さん、蝦名(豊)、伊藤。国土で言えば、メルさんと体のでかい(テリー・)オマリー。あと法政から大量に入ってきた若い連中。テルと同じか一つ下だろ?
本間 一つ下。
黒川 西武では岩倉から行った岩本さんと榛沢(務)。
榛沢も背が小さくてオレと同じようなもんだけど、その分、足が速い。結構いろいろ考えてやっている。並みと違うから努力している。
本間 ボクは榛沢君だと思うなあ。あとメルとハービー。あの辺がすごいなぁという感じはした。
日本代表に選ばれてウィングとしてメルとハービーと組んだことがあるんですよ。いろんなセットでウィングについた。センターもやったけどウィングも結構やった。攻めの時、思ったところにパスは来るし、パスを出したいところにいる。簡単にパスを出して走っていけばパスは来る。好きなところに行ってフリーになっていればパスが来るという感じで、メルとハービーの2人と一緒にやった時のアイスホッケーは面白かったですね。
黒川 それはオレも感じた。孝夫と組んでいる時は縦パスが多いんですよ。
札幌のプレオリンピックの時にメルと組んだ。孝夫と同じ感覚で前に行ったらパスが来ない。それで横についたら、黙ってでも来る。センターの違いを2人から感じた。
やっぱり超一流の選手はどこか見ているところがあるなとテルの話を聞いて思い出した
大坪 古い人だとGKで上手いと思ったのは、古河の本間(敏栄)さん。あのデカい人。
一緒にちょっとやったけど、福徳相互銀行にいた中島(忠雄)さん。キャッチングが上手だった。確か野球をやっていた。ファーストをやっていた。キャッチングがファーストミットを自分で加工してやっていたっていう話を聞いたんだよ。
あと西武の三沢実。彼はポジションの取り方が上手かった。彼はスポーツは何やっても上手かった。オレを試合に出さないで三沢を出せば勝てる試合はもっとあった(笑)。
- 外国人選手について
- スタルシノフが進んで行ったら、西武の外国人DFがフェイントでひっくり返った。 (黒川)
日本リーグはスタート当初から人数制限はあったもの、外国人選手は解禁されていた。西武鉄道や国土計画には仁(メル)、修(ハービー)の若林兄弟がいた。その後、日本のアイスホッケー界に多大な影響を与えた外国人選手が加入した。第6回日本リーグからのテリー・オマリー氏(西武鉄道→国土計画)。そして、第10回日本リーグのヴャチェスラフ・スタルシノフ氏(王子製紙)だ。
――王子にいたスタルシノフ氏。彼はソ連のトップというか、世界のトッププレーヤーでした。外国人選手で印象に残るのは?
黒川 オレが王子に入った頃は、海外と接触もないし、海外の情報はテレビでも入らなかったでしょ。アイスホッケー自体、日本のアイスホッケーしか知らなかった。
そうしているうちに西武にオマリーがいて、若林兄弟が来てね。その後、(ダグ・)ブキャナンとかが来てね。それで少しずつ日本のアイスホッケーが変わってきた。
大坪 ハウだっけ。GKのでっかいの……。
黒川 どこも開いていなくて嫌いだった。
スタルシノフはオレが辞めて2年後に入ってきた。
大坪 オレは一緒かな。
本間 ボクもずっとやっている間一緒でした。上手かったですね。
黒川 スタルシノフを初めて見た時だよ。我々とレベル差があった。普通、スケーティングでフェイントをかけても、左右どっちに行くかは分かるんですよ。でも、スタルシノフの場合は真ん中に乗っていてフェイントをかけるから、後ろから見た時にどっちに向かうのか分からない。すごい選手だなと思った。彼が進んで行ったら、西武の外国人DFがフェイントでひっくり返った。すごい! やっぱりソ連の超一流の選手だなと。
本間 1対1で他のチームのDFもスタルシノフには抜かれていましたけど、ボクも(スタルシノフが)ちょうどいた頃にDFをやれということで、3カ月から4カ月、DFをやったんです。ピュッと横に行って追い付けるなと思ったらもういない。抜いてからのスピードがあった。
黒川 交わしてからの体の入れ方かな。常にヒザに乗っているんですよね。重心がずれないから後ろから見ていて、本当にフェイントが分からなかった。今まで来た中で一番だ。
本間 こっちの方が分かっていても、ちょっとフェイントをかけられたら、わっと思ってこっちにきた時にはもういないんだよね。早くてね。ああーと思って。
黒川 日本人と違うのは関節の力が強い。ちょっと日本人ならこうくると思うけど、あいつらはもうそっち行っちゃっているんですよ。
大坪 日本のアイスホッケーの感覚で、「スラバ(スタルシノフのこと)さん、あの場面はシュートでしょ」と聞いたら、「ダメ!」と一言。ここでスラバさんがシュートしても入らないから、ソ連の感覚だとパスした方が入る確率が高いという考えだった。
黒川 ソ連の人は、一人ずつの個人技もあるし、コンビネーションもある。どんなパスを出しても簡単にシュートしたり、パスしたり。瞬間的に判断できるわけですよね。そこが昔の日本の選手と違うところ。
大坪 そういえば、孝夫と二人で、モスクワでの世界選手権に視察へ行った時、シェレメーチエヴォ国際空港で飛行機を降りて税関に行ったら、ガラス窓の向こう側にスタルシノフが王子のジャンパーを着ていたのよ。
スタルシノフが迎えに来ていることが分かると、何も検査しないで「通れ」だった。これはすごい、やっぱりスタルシノフだなと思った。
- 日本代表について
- 監督の田名部さんに頼み込んでセンターやらせてもらった。 (黒川)
戦後、1957年のモスクワで開催された世界選手権に代表チームを派遣し、世界の舞台に復帰した男子日本代表。当時は、現在のように毎シーズン、代表チームを世界選手権に派遣していなかった。毎シーズンの参加ではなかったが、日本の実力はBプールのレベルがあった。実際、1962年のアメリカ・コロラドスプリングス大会ではBプールで優勝。1967年のオーストリア・ウィーン大会、1969年のユーゴスラビア・スコピエ大会では、世界選手権のCプールに出場したが、ともに優勝し、Bプールの力があることを見せつけた。
1967年からは毎シーズン日本代表を世界選手権に派遣し、Bプールを定位置に世界のトップグループであるAプール入りを目指していた。
また、オリンピックは1960年のアメリカ・スコーバレー大会から参加。1964年のオーストリア・インスブルックオリンピック以降、予選を勝ち上がり、オリンピック行きの切符を手にしていた(1976年インスブルック大会と1980年アメリカ・レークプラシッド大会の繰り上げ出場を含む)。
――王子の中心選手として戦っていると日本代表に選ばれるようにもなります。世界選手権やオリンピックへ出場する日本代表はどういう存在でしたか?
黒川 やっぱり最初は海外に行きたいというのがあるから、ナショナルチームに入るというのがまず一番の望みですよね。
大坪 最初、世界選手権に行って、次に「フランスでオリンピックあるぞ」となったら、「よし!」となる。もし出られないんだったら、恥ずかしいしね。「ラッキーで行った」とは言われずに、「絶対行くぞ」「次も行くぞ」という感じでね。そう思ってやったね。
黒川 オレは、オリンピックは一度挫折した。グルノーブルの時に日本リーグの最後の試合で足を折ってね。これが悔しくて、悔しくて……。
――1972年には札幌オリンピックがありました。「錦を飾る」ではないですけど、札幌オリンピックに出たいという気持ちはあったと思いますし、札幌の前から日本代表のメンバーでしたので、どんな感じで札幌オリンピックを目指しましたか。
本間 札幌オリンピックは、まず選ばれるのが第一の目標。選ばれたら、あの時はソ連のコーチ(カルポリ氏)だった。コーチから「あれやれ、これやれ」と言われた。ウィングをやっていても日本とやり方が違うじゃないですか。それを一生懸命教えられてやるだけ。
札幌オリンピックの時、ボクはハービーと岩本さんのウィングを、1年間ずーとやっていたんですよ。大会期間中にスケートの刃を折って、(試合に)出られなくなったんですよ。スケートがないから、それで1試合休んで……。兄貴のスケートを借りて最後にまた出たという感じです。スケートが壊れてなかったらずっと組んで出ていたんだけどね。
黒川 それまでは孝夫とずっと組んでいた。でも札幌オリンピックの時は、センターをやりたくて、どうしようもなくて、監督の田名部さんに「頼むからセンターをやらせてください」と頼み込んでセンターやらせてもらったんですよ。
私がセンターをやるからには、守りだけを一生懸命やること。だから札幌オリンピックの記憶がそんなにない。「出られたな」というくらい。
――センターをやりたかったっていうのは何か理由は?
黒川 アイスホッケーで、センターは一番の華です。孝夫を見てもそうだし、ただ一度やってみたいっていうのがあった。それだけですね。だから、札幌では得点はない。頑張って守るだけ。
ウィングは岡島さんと(中野)稔かな。最後のわがままでした。お前(大坪)にも言っていないけどな。
大坪 オレは特別な思いは、別に何も感じなかった。ただ変なプレーをしない方がいいなと思って、それを考えていたね。頑張ろうと思ってね。
黒川 それまでオリンピックに出られなかったから、一度は出たい。札幌には出たいというのがあった。出られたのでその喜びの方が強かった。あとは自分で点数を入れられなくてもセンターをやらしてもらっている。その喜びの方が強かった。
- 世界選手権での活躍について
- 外国人は体格もリーチも違い動き方も分からない。怖さもある。体で覚えてきてから得点できた。 (黒川)
戦前の1930年にフランス・シャモニーで開催された世界選手権に参加して以来、2026年5月にポーランド・ソスノヴィエツで開催された世界選手権まで、オリンピックと世界選手権に日本代表として出場した選手は約350人(代表に選ばれたものの、試合出場がなかった選手を含む)。GKを除くプレーヤー300余人の中で、黒川氏の世界選手権におけるゴールは特筆もの。1967年のウィーン大会(Cプール)は13ゴール、次の1969年のスコピエ大会(Cプール)では11ゴール、1970年のブカレスト大会(Bプール)で11ゴール。3大会2桁得点は黒川氏しかいない。
黒川氏以外で、過去に1大会で2桁得点をした選手は、高島守氏が1962年のコロラド・スプリングス大会(Bプール)で12ゴール、佐藤真弘氏が1962年のコロラド・スプリングス大会(Bプール)での10ゴールと1964年のインスブルックオリンピックでの13ゴール、東毅氏が1982年のハカ大会(Cプール)で11ゴール、鈴木宣夫氏が1987年のコペンハーゲン大会(Cプール)で13ゴールと、以上の4人しかいない。
また、大坪氏は1973年のオーストリア・グラーツの大会でベスト6(GK)に選ばれた。さらに、1975年の札幌大会では特別表彰も受けている。
――外国人相手に点を取るポイントみたいなものは。
大坪 最高は7秒で2点入れている。フェイスオフから孝夫がパスをして入れた。
黒川 あいつ(引木)には頭が上がらなかった(笑)。
大坪 フェイスオフから見たらランプがついていた。シュートも良かった。下手なシュートする人だったら入らない。やっぱりそこは大したものだ。だから孝夫もパスを出して正解だと思うよ。入れてくるんだもん。
黒川 外国の選手とやってフェイスオフが取れるっていうのは強いところなんですけど、センターで一番強いのではないかな。
最初の世界選手権はウィーンでした。その前にヨーロッパを転戦して、初めは全然ダメだった。体格も違うし、リーチも違う。動き方が分からなかった。ちょっと怖さもあるしね。何試合かやっていくうちに段々迷いが取れてきて、外国の選手はこのままいったらスティックを出してくるとか、これだったら抜けるとかね。そういうのを体で覚えてきてからですよ。遠征した半ば頃から入れられるようになった。
大坪 最初はチェコスロバキアに行ったのよ。クロはボディーチェックを食らって担架で運ばれた。「大丈夫か」と相手が心配して、チェコのグラスをもらったりしてな。
DFの鳥谷部(健司)さんもボディを食らって、担架で運ばれるのが恥ずかしいからと無理やり自力でベンチに上がってきた。「いやぁ、オレも担架で運ばれたら良かった」と話していた(笑)。
黒川 脳震とう状態みたいだった。チェコの選手はすごかった。対峙したチェコ選手をかわせると思ったけど、そこからが早くて、腰を入れてくるんですよ。そういうところからだんだん覚えてきた。
大坪 体が大きかったら対等に行ったと思う。でもクロは体が小さいから、何とかしようと考えた。本当にそれは練習を見ていた時から分かった。体の使い方が上手かった。
黒川 王子でも同期で、大坪がいて、孝夫がいて。負けたくないっていうのがあるからね。テルにも自分のチームでも、他のチームでも、同期のやつには負けたくないってあるよね。まして、後輩には負けたくないしね。
本間 (うなずく)
――体格差がある中で、大坪さんは1973年の世界選手権でベストGKにもなっています。
黒川 グラーツは良い街だったよね。28、29歳かそのくらいだったかな。
大坪 30歳手前だった。田中のヤッチ(田中保伸氏)から教えられたんだ。「大坪さん、ベストプレーヤーだよ」と。テルもいたでしょ。
本間 いた、いた。
大坪 晩飯を食べていたら、「大坪さん、ベストプレーヤーだよ」「何言っているんだ」と答えていた。オレは英語が話せない。でもヤッチは話せた。確か、そんな記憶しかない。カップみたいのをもらったけど、箱もなかった。
黒川 最後にイタリアと接戦して、イタリアに負けたらCプールに落ちる時に、3点ぐらい入れて勝った。その記憶がある。
――黒川さんも世界選手権で得点王になっています。
黒川 1967年と1969年。外国人に慣れていた。自分で入れてないように見えて得点になっている。いやいや、パックに触っているのよ。ゴール前でちょっと角度を変えたりしてね(苦笑)。
- 海外遠征での食事について
- 肉が嫌いだから肉は食べない。魚を食べて、ナマズも食べた。 (大坪)
海外遠征となると、問題になるのが食生活。一部の競技の日本代表はチームに料理人が帯同することも珍しくない。しかし、アイスホッケーの場合、料理人を帯同させることはできておらず、今も昔も食事をどうするかは、重要性の大小はあるものの、課題の一つではある。実際、現在でも食生活は代表チームの課題の一つで、炊飯器を持参することも珍しくない。
――日本代表で海外遠征に行った時の食事はどうでしたか?
大坪 オレは全然ダメ。肉嫌いだから肉は食べない。魚を食べていた。
本間 魚料理だけでしたね。ナマズも食べたでしょ。
大坪 ユーゴスラビアではナマズが出た。初めは分からなかったけど、メイドさんに聞いたらナマズは美味いということで食べた。美味かったよ。
黒川 あとはパンとポテト。ポテトがご飯の代わり。
大坪 あとはカップ麺も持って行ったけどね。
黒川 オレらは行ったら、帰ってきたら太っていたよ
大坪 試合前に晩飯を食べ、試合が終わってホテルに帰ってきたら、カップ麺食べたりしたけどね。
黒川 大坪は料理も自分でできたから、お相伴にあずかってね。その代わり、お酒を持って行くわけさ。
大坪 クロは飲まないけど、みんなと一緒にウイスキーを買ってきたりするでしょ。オレは好きだから断らない。
黒川 オレは飲まないからコップにちょっと入れて飲むと寝られた。
大坪はやっぱり飲めるから、コップ持ってきて待っている(笑)。お前と森島さんはよく飲んでいたな。
大坪 飲んだ。
本間 固形燃料ってあるじゃないですか。あれを買ってきて、鍋も買って、インスタントラーメンを持って行って、鍋で水を沸かしてインスタントラーメンを食べていた。半分くらいはインスタントラーメンと固形燃料のご飯だった。
大坪 世界選手権じゃないけど、スペングラーカップでは、12月30日に食堂で年越しそばを食べたこともあるな。
- 引退について
- 性格が悪いからズルズルやっているとおかしくなるから、さっぱり辞めた。 (黒川)
選手として避けて通れないのが引退。「まだやれる」「ボロボロなるまでやる」など、引退理由や引退時期などは十人十色。選手にとってさまざまだ。
――オリンピックや世界選手権を経験し、選手生活を続けていると、当然、晩年になり、引退という文字も浮かんでくるかと思いますけど、引退の決断というのは?
黒川 王子に入る前から3年やって試合に出られなかったらやめようと思っていたんだ。
もし出られても10年やったらやめようと思っていた。結局、11年くらいやったのかな。良い思いもしたんで、札幌オリンピックが終わって11年目の第8回日本リーグで優勝したんだよね。それでもういいなと。辞める決断は一番早かったな。西浦さんになんでオレに言わなかったんだって怒られたんですけどね。
オレは性格が悪いからずっとズルズルやっているとおかしくなるから、監督の桝川さんに「辞めさせてくれ」と頼んだ。桝川さんが「分かった」となって、さっぱり辞めた。
大坪 オレはね、ナショナルチームはインスブルックオリンピックで辞めた。あの時の監督は古河の宮崎(宜広)さん。オーストリア戦で、オーストリアの選手が風邪を引いていて、選手が足りていないチームに2-3で負けたんだよね。悔しくてさ。試合にならない、めちゃくちゃだったので、幹部選手を部屋に呼んで、「今のままならチームが成り立たない」などいろいろ話をした。オレがチームで一番年上だったしね。
試合が終わって帰りの飛行機で、宮崎さんに「もう(代表には)選ばないでください」と話した。
そして王子でプレーしていても年を取ってきたんだよ。34歳になったのかな。背番号33だから33歳になったら辞めようかなと、それまでやってきたらいいなと思っていた(一同笑)。
その時、桝川さんが監督で、(新谷)和夫が26、27歳。これ以上、オレが長くレギュラーでいたら、和夫がダメになっちゃう。その後も大変だと桝川さんと話した。「オレがやれるうちに和夫を使ってくれ。そしてオレはサブにいるから」と言った。そして西武との定期戦で和夫を使った。和夫のプレーが良くて、オレはそのシーズン、全部サブで行くとなった。
そうしたら、日本リーグの最終戦だった。王子が4点差で負けなかったら優勝だとか、そんなことがあったでしょ。試合に行く時にエレベーターで孝夫に「お前、今日の試合、先発で出ろ」と言われた。そう言われても桝川さんが監督。「お前にそんなこと言われても、出られるかは分からない」とエレベーターの中で話したんだよ。そして負けたんだよね。
自分で決めていたし、それが34歳だった。途中では30歳になってもやれるから、33歳までやるからと思ってやっていたんだけど、34歳になって34歳で辞めようと思って、桝川さんと話して、それで和夫と代わった。
本間 ボクは監督が引木さんの時で、引木さんから辞めていいからって言われました。30歳の時でしたね。その年に外国人2人入ってきて、その関係もあったからか、辞めろと言われて辞めた。
- セカンドキャリアについて
- 国体では選手でも監督でも「お前は使い物にならない」と言われて辞めた。 (本間)
アイスホッケーに限らず企業スポーツ全盛の時代では、選手は練習が終わると仕事に就くのが一般的。アイスホッケーと仕事の両立は当然のことであった。現役引退後は社業に戻るがほんとであった。
その一方で、一部の選手は、スタッフとしてチームに残る者、レフェリーの道に進む者、強化委員として各世代の代表チームのスタッフに就く者など、セカンドキャリアの道はいろいろあった。
――選手を引退すると、セカンドキャリアとしてそれぞれの道へ進んで行きます。そのセカンドキャリアの選択は? 黒川さんはレフェリーの道に入っていったわけですが……。
黒川 (選手を)辞めて2年ぐらいしてからかな。主審1人とラインズマン2人のレフェリーが3人制になったんですよ。当時、高木(邦人)さんがレフェリー委員長をやっていて、レフェリーが3人制になって、レフェリーが足りないからお前やれと言われてね。
引退して会社で仕事をしていましたが、当時は、アイスホッケーだと優先させてくれたんですよ。
レフェリー人生がこんなに長くなるとは思わなかったんですけどね。やりだしたら面白いんですよ。瞬間的に全体を見られるというか、結構プレーを読めるんですよ。アシストでも3人くらいはすぐ暗記できた。2番手、3番手……。次いったらこれを削って、それも追っていけるような。そういうのを覚えたら面白くなってね。
レフェリーも現役でやっていたのは47、48歳くらいまでかな。その後はレフェリー委員長として54歳くらいまで。
――大坪さんは王子のコーチやアジア・オセアニアジュニア日本代表の監督などをなされていますが……。
大坪 選手を辞めて2年間かな、王子の(専任)コーチは。コーチを辞めて趣味で魚釣りをやっていた。
森(一彦)さんが初めは監督だったから、その後、3、4年かな。
黒川 オーストラリアの大会に監督になって行く時に、私も一緒にレフェリーで帯同して行ったのですよ。
大坪 そこでも勇払コンビ!
――本間さんは引退してからアイスホッケーに絡むことは?
本間 引退して1年は休んでいて、その後はクラブチームに入ってちょっとやって。その時は(北海道の)国体選手として3回くらい出場しました。
そのころ、小野(悳)さんが監督で「お前は使い物にならない」と国体に行っても使い物にならないと言われてね(笑)。それが終わった後、今度は国体の監督をやったら負けて、「お前、使い物にならない」と言われ……(一同大笑)。
そして王子が米子の会社と合併したんですよね。その時、国体があったから行けと言われて、米子に2年間、行ったかな。
黒川 段々その頃から学生が強くなったんだよね。学生が国体に出るようになって北海道も結構苦しくなってきたよね。東京はオール学生。オール学生対日本リーグOBの対決になって、最終的にはパワーに負けるもんな。走られたら敵わないもんね。
- 王子対岩倉の戦いについて
- 室蘭本線を挟んで、向こう側は岩倉、こちら側は王子。 (大坪)
「アイスホッケー・タウン」を標ぼうする苫小牧市。苫小牧市の人口は1969年に10万人を突破。1980年には15万人を超え、その後は17万人前後で推移している。大都市とは言い難い苫小牧であったが、トップリーグである日本リーグに所属するチームが王子製紙と岩倉の2つあり、町を2分し、「王子 VS. 岩倉」となると会場は大入り満員であった。
――選手時代やセカンドキャリア時代において、会社の仕事とアイスホッケーの両立はどうでしたか?
本間 現役時代も練習が終わって常に会社に行っていたから、引退後も苦にもならなかった。
大坪 現役時代、シーズンに入ってからは、午前・午後練習があったから、その時だけは会社に行かない。でもそれはそんなに多くないからね。あとは、午前中に練習したら午後から会社。午前中、会社行ったら午後から練習。会社へ行ったら顔を出していたよ。
本間 4月から6月までぐらいは、練習がないからずっと会社です。普通の人と一緒。ボクの仕事は一般の社員の方と同じように3交代制をやった。
大坪 オレは働きが悪いからね。何もしなかった(笑)。
黒川 その割には痩せなかったな(笑)
――仕事場に選手が来て、一緒に仕事をするわけですよね。シーズンインすると配属先で盛り上げようみたいな雰囲気。自分たちと同じ部署の社員が選手で、同じ部署の仲間だから応援するぞみたいになる。これが企業スポーツの良さであったと思うのですが。
本間 そういうのはありましたね。試合を見に来ていたとか、声かけてくれたりとか。
黒川 昔の王子リンクは、電光掲示板の下で、ずらっとたくさんの仲間が見てくれるんですよ。ちょっと変なプレーした後に会社に行ったらうるさいのです(笑)。
大坪 会社では今度はオレが応援する番だなと、すごかった。
黒川 結構、昔は職場の人はみんなやっぱり来てくれましたね。今ほど規則などにうるさくないから、「暇だったらみんな行けー!」といった感じ。そして、お客さんもアルコールを入れながら応援しているからね。酒瓶が飛んできたこともあった。
――応援と言えば、古き良き時代として、苫小牧と言えば王子対岩倉の戦いがありますが……。
大坪 リンクの応援席が半分に分かれたからね。
黒川 会場に入れないで騒いだ人もいた。実際、その頃は岩倉の応援の方が多かったんですよ。
私は酒飲まないから街に行かないんですけど、飲むヤツは街に行ってね。
大坪 負けたらもう大変。「もっと練習しろ。何飲みに来ているんだ」と怒鳴られて、店に入れてくれない。逆に勝ったら、「よくやったね!」とガンガン飲ましてくれた(笑)。昔は本当にそのくらいだった。
本間 間違って岩倉の応援団がいる店に行くと、「お前何しに来たのよ」と言われたこともあった。「ここはオレらの島だから出ていけ。まあ、一杯だけ飲ませてやる。飲んだら出ていけ」状態(笑)。
大坪 室蘭本線を挟んで、向こう側は岩倉、こちら側は王子。負けたら(リンクから)そのまま家に帰らないとダメ。勝ったら1円もなくても大丈夫だった(笑)。
黒川 そういう意味では町ぐるみでアイスホッケーを応援していた。今はいろんなスポーツがあるけど、昔はアイスホッケーだけだったからね。
大坪 やっている方もすごかったのよ
- 現在のGKについて
- 体が小さいからGK用では動けない。FW用の胸当てを自分で直して付けていた。 (大坪)
2004年、福藤豊選手(当時コクド)がNHLエントリードラフトでロサンゼルス・キングスから8巡目(全体で238位)指名を受けた。日本人としては1992年の三浦浩幸選手(コクド)以来2人目のことであった。
1960年代から1970年代に世界のつわものたちと対峙してきたお三方にとって、今の選手はどのように見えているのだろうか。
――話は変わりますが、福藤豊選手が日本でNHLのドラフトで指名されました。福藤選手に代表されるように現在のGKについて、GKからの目線、プレーヤーからの目線で見てどう思いますか?
大坪 今のGKはよく分からない(苦笑)。
オレの体格だったら、今はGKとしては全然ダメ。両ヒザをつくでしょ。上が空いちゃう。
本間 みんなバタフライだからね。
黒川 でも今のGKは肩口を狙えば良い。
大坪 みんな入る。
黒川 コントロールが良ければ全部入る。
本間 一回フェイントを入れたら全部ヒザをついちゃうから、肩口を狙う。
大坪 スライドは入りにくいかもしれないけど、肩口は全部入るよね。
黒川 コントロールがあったら簡単に入れちゃう。フェイントを一つ入れれば良い。
大坪 オレたちの時はなんで下を突くんだと怒られた。
黒川 これは足短いからな(笑)。
大坪 オレは腕も短い(笑)。でも、パッと手を出したり、足を出したりするんだよね。すると、スケートのエッジの先からパックが流れていくのよ。「NATIONAL」と書いてある字が見えるくらい。あと2センチ足長がったら受けられたなぁ。つくづく思ったことがある。
黒川 外国人は足が長いから。
本間 ガタイが大きいからね。空かないんだよね。ちょっと前に出たら、空かない。でも下がっていたら空いちゃうんだよね。
大坪 今のGKは立ったら、ゴールのバーが脇の下ぐらいにあるでしょ? オレだったら肩の上だからな。座っちゃったらもうがら空きだもん。ナンボでも入れられると思って見ている。
また、今のGKのレガースを付けたら大きくて動けないもんね。あれだけ大きくなかったら下の方がダメだしね。
黒川 最初から着けていたらね。
本間 最初から着けて慣れれば、だいぶ違うだろうからね。
大坪 でも、慣れないね。
本間 大坪さんは慣れない(笑)。
黒川 大坪は今までのGKで一番上手いと思うよ。
大坪 防具の話だけど、オレはFW用の胸当てを付けていた。
肩パットを付けて、FW用の胸当てがあるでしょ。当たると痛いから、あれを自分で直して付けていた。
本間 昔のペラペラのやつでしょ。パッドの入っていない、あれを付けていたのでしょ。
大坪 体が小さいから普通の売っているやつを付けても大きいから動けないでしょ。いかに動けるかということで、それをつけていた。だから、今のこんなに大きいのをつけてやったら、絶対動けない。
- 今後へ期待することについて
- 女子はオリンピック出ているんだから、男子もオリンピック出てもらいたい。 (黒川)
大坪氏、黒川氏、本間氏の3氏が現役時代、男子日本代表はオリンピック出場を果たしていた。しかし、1980年のレークプラシッドオリンピックを最後に、開催国として出場した1998年の長野オリンピックを除くと、男子日本代表はオリンピック出場を果たせていない。
――これから先、日本のアイスホッケー界がどうなってもらいたいと思いますか。現状、日本のアイスホッケー界、特に男子日本代表は低迷しています。上がっていってもらいたいと思うんですが。
黒川 今はないけど昔は水を撒いてリンクをつくっていた。
そういうのが良い思い出みたいな感じで寒い中でも頑張るというのがあるよね。
本間 そういう環境にいないもんね。水撒いてリンクをつくって小さい子どもがアイスホッケーやるとかって。
大坪 リンク代だって、金かかる。そして車がなかったら来られない。これが大変。
本間 保護者などが車で送り迎え。車がないとできない。
黒川 オレらの時は水を撒いたり、沼に落ちたり(笑)。
大坪 そういう経験ないでしょ。前の晩から雨が降ると、明日まで降ればいいな。校庭のリンクができないから、そうしたら明日は練習がない。雨が降り続けることを願った(笑)。
黒川 それらも今思えば思い出として残るもんね。
昔話は置いといて、やっぱり一番は、女子はオリンピック出ているんだから、男子もオリンピック出てもらいたいですね。
大坪 それには底辺から。やっぱり子ども。中学校、高校。苫小牧でさえ高校が単独チームで大会に出られなくなったりしているんだから。この「スケートの町」でね。
やっぱり費用もかかるし、子どもも少なくなって、する人がいなくなってきているかもしれない。それが問題だと思うね。
やっぱり数多くやる人が出てこないと、強くもならないんじゃないかなと思う。
――まだまだ話は尽きませんが、試合終了とさせていただきます。本日はありがとうございました。
一同 ありがとう。
座談会が始まる前は「覚えていないなぁ(笑)」と口をそろえていたお三方。しかし、座談会が始まり、話が盛り上がると、数十年前の出来事が現在進行形の出来事であるかのように蘇り、熱く話していただいた。
まだまだ話のネタは尽きなかったが、60分間では座談会は終わらず、オーバータイムに突入した中、名残惜しそうに終了のブザーが鳴った。