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レジェンド対談_Vol.1 榛沢務 vs. 星野好男
「オリンピックでは、ソ連にいいように遊ばれた」(星野)
「日本が攻め込むことはほとんどないから、リンクの半分がきれいだった」(榛沢)
1936年のガルミッシュ・パルテンキルヘン大会(ドイツ)で初めてオリンピック出場を果たした男子日本代表。第2次世界大戦後の1960年のスコーバレー大会(アメリカ)でオリンピックへの復帰・復活出場をすると、1980年のレークプラシッド大会(アメリカ)まで、6大会連続出場を果たした。
しかし、1984年のサラエボ大会(ユーゴスラビア)の出場を逃すと、1988年カルガリー大会(カナダ)、1992年アルベールビル大会(フランス)、1994年リレハンメル大会(ノルウェー)まで4大会連続してオリンピックの舞台に立つことはできなかった。1998年の長野大会で開催国として出場したものの、2002年のソルトレークシティー大会(アメリカ)から2026年のミラノ・コルティナ大会(イタリア)まで出場権を獲得できていない。
オリンピック出場をめざして世界の列強と戦っている男子日本代表。日本代表の一員としてとして1972年の札幌大会、1976年のインスブルック大会(オーストリア)、1980年のレークプラシッド大会と3大会連続して出場を果たした榛沢務氏(元西武鉄道)と星野好男氏(元国土計画)に、日本代表メンバーとして戦ったオリンピックや世界選手権の思い出、日本代表への思い、そして現在のプレーヤーの印象などを語り合っていただいた。
<写真:星野氏(左)と榛沢氏(右)>
榛沢務◎Tsutomu HANZAWA
1948年8月28日生まれ。釧路工業高校から西武鉄道入り。日本リーグ通算118ゴール96アシスト214ポイントをマーク。ベスト6に2回選出された。1989-1990シーズンからの5シーズンと1999-2000シーズンからの2シーズン、通算7シーズンに渡り西武鉄道の監督を務める。男子日本代表として1971年の世界選手権に選ばれると、オリンピック3回、世界選手権に9回出場。また1983年の世界選手権から4シーズン、日本代表コーチを務めた。
星野好男◎Yoshio HOSHINO
1950年11月2日生まれ。日光高校から明治大学を経てカナダ・UBCへ1シーズン留学。その後に国土計画入り。最優秀選手2回、ベスト6に7回、最優秀新人賞(第9回)を受賞。日本リーグ通算185ゴール266アシスト451ポイントをマークした他、得点王2回、アシスト王5回、ポイント王4回、その内の第12回リーグでは史上3人目(当時)の三冠王となった。世界選手権には1970年が初出場。その後、オリンピック3回、世界選手権に13回出場。また選手引退後、日本代表のコーチなどを経て1988-1989シーズンから3シーズン、男子日本代表監督として指揮を振るった。
- 日本代表の存在について
- 「日本代表は中学からずっと夢の場所、憧れの場所と思いやってきた」(榛沢)
野球では「侍ジャパン」、サッカーは「SAMURAI Bule(侍ブルー)」、バスケットボールでは「アカツキジャパン」、アイスホッケーでも女子日本代表は「スマイルジャパン」などとい言われ、ブランド価値を高めている。ここに挙げた以外でもスポーツ界において日本代表のブランド価値が高く、日本代表は高いステータスになっている。
――アイスホッケープレーヤーとして、日本代表とはどのような存在でしたか?
榛沢 当然、選手としては憧れの場所だったね。オレはね、中学ぐらいからずっと夢として、将来はオリンピックや世界選手権に行きたいと思っていた。
「札幌オリンピックに向けてチームを強化して、できるだけ西武から日本代表を輩出する、それを目標としてチームをつくる」と説明があって西武に入った。そこから日本代表は夢や憧れの世界から、現実の世界となった。
中学生ぐらいの頃だったかな。世界選手権へ向けての日本代表の国内合宿のニュースがあった。田名部(匡省)さんと古河の島田(繁)さんが日本代表のDFのコンビで、2人にスポットを当てたニュースだった。それを見ていて「わぁ、良いなあ。オレも将来、そういうところに行けたら良いなあ」とは思ったよね。夢の場所、憧れの場所と思い、ずっとやっていた。
星野 オレは親父が古河に勤めていたので、幼稚園の時に宮崎(宜広)さんが家に来たのです。またそれで住んでいる場所が日光でしょ。大学を出て古河に入った人は選手を含め、それこそ全員が家にいつも来ていた。
そんな環境下で、オレが幼稚園の時に、オリンピックがアメリカのスコーバレーで行われて、日本代表は船で渡航した。その時にもらったのがディズニーランドのお土産。金のお盆みたいなものだったね。それを見て、「すごいな。ディズニーランドに行って」と思ったのを覚えているね(笑)。
それと家のすぐ近くにリンクがあったので、子どもの頃、毎日、古河の練習を見に行っていたんだよ。そして、「面白いなあ」と思ってやっていた。アイスホッケーのスケート靴を履いて始めたのは小学4年生ぐらい。たまたま、古河電工リンクの係の人がウチの近所の人で、誰もいない時には滑らせてもらって(笑)、いろいろスケーティングも教わった。
細尾リンクはスティックを使えたので、朝6時ぐらいまでに行っていた。その頃のスティックは古河の選手が壊したスティックをつないで使っていた。買えないので自分たちでつくって遊んでいたわけ。
日本代表という意識はなく、アイスホッケーそのものが遊びの場だった。家の庭にリンクをつくって遊んでいた。それをずっとやっていて、小学生の時から中学生相手に一緒に遊んでいた。中学校に行った時に、アイスホッケーは先輩などが厳しいから入りたくないと断った。また朝早く、5時や6時に練習していて寒いしね。「やりたくない」とい言っていた。それで兄貴がバスケットボールをやっていたので「バスケットボールをやりたい」と言ったら、「お前なんか入れるか」と言われて、仕方がなくアイスホッケーをやるかとなったわけ。中学校では「1年生は試合に出さない」と言われたけど、1年から試合に出ていた。
そして日光高校へ入って、1年のインターハイ(第16回大会)は地元・日光で駒沢(駒大苫小牧)に負け(3-4)。2年の帯広の時(第17回大会)、苫小牧東と戦って、岩本(武志)さん、堀(寛)さんたちに3-6で負けた。でもオレは3点入れて、「アイスホッケーって面白いなあ」と思ったね。それで高校3年のインターハイ(第18回大会)は問題なく、圧倒して勝ったけど(笑)。全試合10点以上。そして決勝が10-6。10点中8点入れましたよ。
榛沢 決勝はどことやったの?
星野 京谷(佳明)がいた苫小牧工業。その前(準決勝)の(釧路)一高に小山内(幹雄)がいて。その前(準々決勝)が駒沢(駒大苫小牧)で(桜井)照男がいて、(苫小牧)東以外と戦って、全部破って優勝したでしょ。それでオレは大学に行くつもりだったから、明治大学に進んだ。
日本代表の合宿メンバーの発表の時、オレは高校生だったので、そのメンバーに入っていなかった。入学してすぐに8大学があって、そこで優勝したら、試合が終わって監督の宮崎さんから「明日から全日本へ行け」と言われた。でも正直なところ、行く気がないから、「なんでオレが行くの? あまり行きたくない」と思ったよ。行かされた感じだったね(笑)。
札幌オリンピックが行われる3年ぐらい前の5月の連休時期だったかな。軽井沢に50人から60人を集めて合宿をやった。大学生の柴田(清典)さん、松田(幹郎)さんらも入っていた。たまたまカルポフさんもいたし、いろいろ教えてもらった。
その後、日本代表に入れとなった時、「えっ!」と思ったわけ。正直、日本代表ってなんだろうと思った。大学生はオレ以外、誰もいなかった。世界選手権へ行く際、所属会社も遠征費用を負担していたわけで、当時1人当たり25万円ぐらい。でもオレは大学生でお金がないから、「出せません」となるわけ。すると、「就職先を決めろ」と言われた。家に帰って、親父も死んだ直後だったので、どうすると相談したら、兄貴が出してやるよと言うから、就職先をどこにも決めずに日本代表入りした。
- 日本代表入りしての印象について
- 「ポジションとしては、いつもアウトローだから、誰かがいなくならないとセットに入る場所がなかった」(星野)
榛沢氏は1971年、星野氏は1970年が日本代表として世界選手権デビューとなった。
――日本代表入りを果たしてみて、日本代表はどんなところでしたか?
星野 札幌オリンピック前にプレオリンピックがあって、札幌で試合をした。オレは関東選抜のメンバーで、日本代表(オリンピックチーム)から外れていた。北海道選抜、関東選抜とオリンピックチームと試合をして、オリンピックチームと引き分けたりしたんだよね。プレオリンピックが終わったら、また「すぐ(日本代表に)来い」と言われた。すぐ行って、日本代表に入った。それがちょうど札幌の前の年だったかな。
日本代表といってもまだ大学生だし、社会人にいじられるし、ロクなもんではないなと思ったよ(笑)。
1年目の時、スイスで大先輩から「ウイングマークって知っているか」と聞かれて、「知らない」と答えた。教わったこともないし、大学のチームでもやっていないしね。「知りませんよ。なんだそれ」となって……。その時、レマン湖畔のホテルに泊まっていて、オレは高木(義久)さんと同じ部屋で、頭にきたし、(スイスに)着いたばっかりだからお金もあったから、「高木さん、オレ帰るわ! 冗談じゃない、怒られて文句を言われて、やっていられない」となったわけ。すると高木さんが「まあまあ」と収めてくれて、帰らず続けたわけ。
札幌オリンピックの時、オレは大学生。当時は王子のセット、西武のセット、岩倉のセットといった具合に各チームのセットでチームを編成していた。オレは誰かが休むとそこに入った。本間照(照康)さんがケガした時は、黒川(秀明)さんと引木(孝夫)さんのセットに入ることになった。岩本さんのセットに入った時は榛(榛沢)ちゃんがケガしたのかな。オレはいつも入るセットが違った。どのセットも、セットとしての動きがまるっきり違う。それぞれのセットの動きを自分で考えながらやらないといけないわけ。このセットはどういうことかなと思ってやっていた。
中学時代もレギュラーになれないと試合に出られない。高校もそうだよね。とにかくレギュラーになるだけを考えていた。そして日本代表ではオマケだからさ。セットにも入っていない。そして大学生はオレ1人でしょ。大変なところだと思った。
榛沢 (星野)好男はセットはもちろんだけど、いろいろな面で大変だったと思うよ。
――榛沢さんはどうでした。夢の場所に入ってみて。
榛沢 好男と2歳しか違わないから、日本代表に入れたけど一番下。引木さん、岩本さん、黒川さん、岡島(徹)さんらがいて、「こんなところでやって!」といった感じ。ただ、オレと好男とが違うのは、オレはすでに西武の選手で、引木さんや岩本さんとも組んだこともあったので、コミュニケーションがあるわけ。
星野 オレはたった1人の大学生。コミュニケーションはなかなか取れないんだもん。セットを組むたびに動きが変わり、岩本さんの場合は細かい動きなどをやったり、ゴール前に待っていて、(ゴールを)入れたり。それで入らないと怒られるし。翌日、引木さんと組むと、前をダーと走っていかないと怒られるし。動きが違うから大変だった。
でも、アイスホッケーはセットを組む人によってこんなに動きが違うんだとそれは勉強になった。当時はほとんど引木さんか岩本さんと組まされたから、今日はどっちだろうと思っていた。そんな状況だったけど、オレは札幌オリンピックではなんだかんだいっても全試合出たよ。
――ハービー(若林修)さんと組むことは?
星野 ハービーは岩本さんと組んでいて、榛ちゃんが風邪を引いたとかケガをした時、遠征に行った時などにそこにオレが入るわけ。オレのポジションとしては、いつもアウトローだから、誰かケガしないかな(笑)。誰かいなくならないかと思っていた(笑)。それしか(セットに)入る場所がないからね。
――榛沢さんのポジションは?
星野 榛ちゃんはあるさ。西武のセットだしね。
榛沢 日本代表は憧れの場所だけども、最初の頃はずっと緊張していたよね。唯一の救いは西武の選手が何人かいたこと。あとは王子や岩倉の名だたる選手が入っていてね(笑)。好男はそういう意味では大変だったと思うよ。「あーだ、こーだ」と言えるチームメートがオレにはいたわけだからね。
オレはハービーさん、岩本さんら、いつもやっているところに入っているからね。誰かが変わったからそこへ行くことはないわけさ。
星野 オレは空いているところに入っていくわけだから(笑)。
<写真:星野好男氏>
- オリンピックと世界選手権について
- 「Aグループへ行けそうな時が、日本代表に入って試合をしていて一番楽しかった」(榛沢)
Aグループ入りが遠い存在ではなく、あと一歩と迫った時もあった男子日本代表。1976年と1978年の2回だ。76年は最初の試合でイレギュラーゴールによる失点からの敗戦。その後の試合では、勝ち点を重ねたもの惜しくも2位。1978年はベオグラードでの対ポーランド戦、残り2分10秒の同点にされての2位。その一方でCグループ落ちとなるときも……。1981年では最下位となりCグループ落ちの憂き目に。
――お二人とも札幌、インスブルック、レークプラシッドとオリンピックに3回出場していますが、オリンピックとはどんな世界でしたか。世界選手権(Bグループ)との違いは?
星野 当時のオリンピックは今と大会フォーマットが違うからね。当時は最初に世界選手権(Aグループ・Bグループ)の最上位国対最下位国など上位国対下位国の試合をやって組分けをした。上位と下位とを分ける試合で、日本はソ連やチェコと対戦してその後、下位リーグで戦うわけ。世界選手権(Bグループ)とは全然違う。
榛沢 オリンピックも世界選手権(Bグループ)も「世界レベルの戦い」なんだけど、やっぱり違う。
星野 世界選手権(Bグループ)はAグループ昇格を狙って戦っていくから、より頑張ってやるけどね。オリンピックは最初に上位と下位を分けるからね。
榛沢 Aグループの上位2カ国のどちらかと日本は当たる。だから結果は正直、決まっている。
星野 1位対12位、2位対11位だからね。上に行くことはないけど、それはそれで、ある意味では大変だった。
でも世界選手権はAグループに行けそうな時があった。厳しい戦いだったけど、それは楽しかった。
榛沢 日本代表に入って、一番楽しい時期だった。また大変だったけど、Aグループへ行けそうだった! 世界選手権の難しさとして、ちょっと気を抜くとCグループ落ち。1回、落ちているからな。その一方で2回ぐらいAグループに手がかかった。
確か1976年は初戦のルーマニアがAグループへ行った。今でも覚えているよ。ルーマニアはシュートをしたわけではない。自陣から放ったパックが、トントントンと行って日本のゴール前でイレギュラーの跳ね方をして入っただけ。あれ? あー?という感じだった。
星野 そうそう、なんなんだ??? という感じ。
榛沢 そこから追い付かれて、負けちゃった。でもくじけずに、そのあと勝って、勝って。ルーマニアの時、負けていなかったら優勝できたんじゃないかな。
星野 1978年のポーランド戦の時は、ベンチに戻るとセンター同士で「フェイスオフは絶対に取る」と言い合っていたんだ。
――残り2分10秒の場面でのフェイスオフは?
星野 ハービーだった(笑)。
――オリンピックと世界選手権(Bグループ)ではモチベーションも違いますか?
榛沢 世界選手権では「Aグループに行きたい! Aグループに行けるのではないか」とオレらは思っていたから、それが大きな目標だった。
オリンピックはさっさと上下に分けられちゃうからね(笑)。レークプラシッドではソ連とやって0-16。やっぱり違いがある。
星野 そうそう、オリンピックでは、ソ連にはいいように遊ばれた。ソ連の選手たちはわざとシュートをゴールポストにぶつけて、ゴールに入ったら笑っていた。ゴールしたチームメートを馬鹿にしていた。
榛沢 リンクの半分が綺麗だった。日本が攻め込むことはほとんどないから、ソ連のゴール前のDゾーンは最初からきれいなまま(笑)。
星野 試合後にシャワーに入ったとき思ったよ。ソ連の選手はそんなに大男ではなかったけど、でもすごい体つきをしていた。それを見たとき、これでは勝てないなと思った。プロテクターをつけているかと思ったよ。
榛沢 スピードはあったし、(体が)強かったよね。
星野 9割9分はレフトハンド。ライトハンドは1人かな。体はそんなに大きくないけど、すごかった。
榛沢 試合以外では、オリンピックはアイスホッケーの試合だけではなくて、他の競技の選手たちもたくさんいて、それぞれの食事の時間になると食堂に集まっていた。オリンピックは独特の雰囲気だった。
世界選手権にはオリンピックの様な雰囲気は全然ない。一つのホテルに参加国が集まって、食事会場には各国の国旗がついているテーブルがあり、そこでそれぞれの国が食事をする。
星野 ミラクルオンアイスとなったレークプラシッドオリンピックだけど、本来ならアメリカ対ソ連戦は会場に入れないけど、この試合の前から毎日会場へ行って、入り口の切符切りの親父にバッジやペナントをあげていた。そして当日、「満員だから入れない」と言われたけど、いつもの親父を見つけて、「ヘエーイ!」と言ったら、「OK COME ON!」で入れてもらった。だけど、座る席がない。それで屋根の下、梁の上に乗って見ていた(笑)。
――オリンピックは楽しめる場でもあるわけですね。
星野 毎日リンクへ行って、試合を見てくるのよ。Aグループの国が真剣勝負をやっているから、その試合を見るのが楽しい。
榛沢 優勝を狙う国同士がやっているから、それはすごい。
星野 本当、面白かった。日本との試合で、オレらは別に遊んでいるわけではなかったし、相手だって気を抜いているわけではなく、普通にやっていたけど……。
榛沢 真剣にやったけど、敵わなかった。そんな感じだった。何をすればできるんだ。そう思いながらやっていた。
星野 世界選手権はそれがなかった。戦っている上では世界選手権の方が面白かった。
榛沢 世界選手権では、常に勝とうと思ってやっていたからな。
- 日本代表での経験の波及効果について
- 「お互いにその上を目指しているから、汚いプレーはしないけど、ガンガンやらないと」(榛沢)
日本代表のレベルを上げるには、選手個人のレベルアップも必要だが、それぞれの所属チームのレベルもアップを避けては通れない。低いレベルで試合をしていてもレベルアップにつながらない。選手個人、チーム、リーグなどのレベルアップのためには、日本代表で戦った経験をチームに持ち帰り、浸透させることは強化につながると思われる。
――日本代表の経験を自チームに戻った際、どのようにフィードバックされましたか?
榛沢 特別なことはあまりないけど、いつもベストを尽くしてプレーしていないと日本代表に行ってもダメというのは思っていた。国土と戦っている時は、(代表組とも)ぶつかる。お互いにその上を目指しているから、汚いプレーはしないけど、ガンガンやらないとね。王子と戦っている時も、特に日本代表に出てくる選手とは、切磋琢磨しなければならないから、気の緩みとかは許されない。そして、相手を活躍させない。
日本代表に行った時には、相手を活躍させないプレーを心掛けてやらなければならないから、普段のプレーがそれにつながる。相手の上手い選手や強い選手に対してはしっかりと戦わなければいけない。それはあったし、結構やっていたよ。もちろん好男とも、バチバチだね(笑)。
星野 普段対戦する時は、みんなとやりましたよ(笑)。オレもやっていた。
それが日本代表で組んだ時には、例えば、(本間)貞樹は入れるのが上手いから、どうやって使ったら良いかなとか考えたね。
榛ちゃんと組んだら、榛ちゃんがパスを出してくれるから、パスもらって、それから相手ゾーンへキープして入って、(京谷)佳明に渡してやれば良いかなとか。このプレーが良いから、こうやったら自分が生きるとか、自分で組んだ時のことをオレは考えたよ。
もちろん自分のチームでも、この選手は連れていった方が良いなとかね。
榛沢 お互い、同じことを考えていたよね。好男と組んだ時は、ちょっと余裕があるタイミングで好男に渡さなくてはと思っていた。敵との間合いが一歩以上余裕のあるところで好男に渡せば、1人は絶対かわしてくれる。そうすると次のポジションを取った時にちゃんとパスが来るわけ。だから好男に余裕があるうちに、とにかく渡すことをすごく心掛けた。
星野 でも、それがなかなかできないんだよ(笑)。榛ちゃんとオレがなんで組んだかというと、そういうところ。オレが楽なのよ。後からタイミングを見て来るから、「はい、いました」とパスを出すわけ。そういうのはチームが違っても、自分のチームでも同じだけど、タイミングがある。
逆に切羽詰まって状態で出されるパスはいらない(笑)。
榛沢 そういうパスを出すと、好男は「出さないでよ」と言うからね。
星野 そんなパスはいらないよ。
榛沢 そんなタイミングでもらってもダメ。何もできない。
星野 もらうのにちょうど良いわけ。いつも考えてくれているけどね。
榛沢 好男と組んだ時は、いつも好男はどこにいるか、いつ出すか。
星野 オレも同じ。持った時に、今かな? もうちょっとかな? 分かっているから、走ってもらって、もらった時はフリーだから。敵が来ていても巻けるとか。そういうのがあるから、よく組んでいた。
榛沢 繰り返すけど、余裕がある時に好男に渡さなくっちゃといつも思っていた。必ず余裕があったところでパスを渡すと必ず1人はかわす。だから次のチャンスが大きくなる。それは心掛けていたね。
星野 もらった瞬間に1人かわせられれば、(先が)開けるからね。それが1人かわすのもギリギリでもらったら、その先はもうないわけ。もらって余裕があって1人かわした時には、ずっと開いている。自分が行くのか渡してやるのか。ブルーライン越えたら寄越せよとか。そのようなことができるわけだよ。
榛沢 そういうタイミングで好男に渡せば、その先の道が2つや3つ開けるわけ。それがギリギリで渡したら、なんとかするけど大きな道は開けないんだ。
<写真:榛澤務氏>
- 自分自身が目指し、心掛けていたプレーについて
- 「まずはチームをまとめること。次に一番上手い選手を生かすことを考えていた」(榛沢)
「槍の榛沢」と呼ばれ、スピードを生かしたプレーが持ち味であった榛沢氏。星野氏は最初の「アウトロー」から、日本を代表とするセンタープレーヤーとして日本代表を引っ張った。
――榛沢さんは現役時代、「槍の榛沢」と言われました。体格に恵まれていたとは言い難い160センチの身長で、日本代表になるためにはどのような努力をしましたか?
榛沢 まずはスピードを生かして、止まらないこと。パックを取るための争いになった時にはパックを動かすことを心掛けた。例えばコーナーでパックの取り合いになるでしょ。自分が止まってパックを取り合うのではなく、スティックでパックを突っついてパックを動かし、一歩二歩先に動いてパックを取る。スピードを生かしてできるだけ止まらないプレー。それと一緒に組んでいる人の特徴を頭に入れて自分のポジションを取ることです。スピードとポジション取り。それをスタートしたのが、メル(若林仁)さんと組んだ時でしたね。
<写真:#16榛澤務(国立代々木第一体育館)>
――星野さんはサイズもありますし、代表にも大学生かから入りました。脚光を浴びていたと思いますが。
星野 小学校、中学校とも試合も出ていたけど、目立っていたと思っていないしね。高校3年の時は相手が相手だったから。大学に行ったらレベルの高い相手がいっぱいいた。彼らには負けたくない気持ちはあったからやっていたけど、自分がめちゃくちゃ目立ったわけでもない。
明治大学卒業後、カナダ・UBCへ行って、試合でウイングに起用されたけど、すぐに「ウイングとしては使えない。明日からセンターをやれ」と言われた。「なんで」と聞いたら、「相手にぶつかってチェックができなければウイングではない」と言われた。「痛いから嫌だ」と言ったけどね(笑)。それでいきなりセンターをやらされた。
札幌オリンピックでカルポフさんに教わっていたので、相手と競り合うより、パスを早く渡すなど、オレのプレーはどちらかというとソ連式だったわけ。それがカナダへ行ったら誰もがカナダ式でしょ。ゴール目指して攻めて行って、GKが出て来るからオレはパスを出す。すると楽々ゴールできるわけ。でも、「なんでパスするんだ」とGKは怒る。監督からも「なんでシュートをしないのだ」と初めはよく怒られた。別にシュートがどうのではなく、フリーの選手がいるのだからと思ったんだけどね。
カルポフさんにソ連式を教わっていたし、どちらかというと、日光高校もそういう感じだった。カナダ式よりソ連式が自分の頭の中ではあっていた。小学校のときからずっと、中学・高校時代もそうでした。
日本代表に行けばカルポフさんが教えてくれました。そこで練習して、岩本さんや引木さんと組んで、明治大学に戻って、日本代表では岩本さんからはこうやれと言われたけど、これはできる、これはできないと試しましたね。引木さんは走れと言ったけど、走ってみたりして、自分にあうものを探していました。毎回、代表に行って教わったことをチームに帰って明治でやってみたね。
榛沢 オレはスピードを生かしたプレーしかなかったからね。一番ラッキーだったのは、素晴らしいセンターについたこと。岩本さん、メルさん、ハービー、引木さん、そして好男。プレーしながらウイングとしてどんどん勉強していけたし、育ててもらえた。センターに育てられたウイングです。その集大成が最後に好男と組んで世界選手権でもうちょっとでAグループという所に行けたことかな。オレはセンターに育てられたからね。
星野 そうだよね。センターに育てられるよね。みんなオレはセンターだと思っているけど、オレはセンターだと思ったことがない。オレは昔からウイングだった。だからウイングの気持ちも分かる。
また年齢を重ねると、先のプレーが読めるよね。試合で、「ここにいて、こう行って、こう行くから、ここに来るな」と思ったら、そこで待っていれば良いわけ。相手の選手は「なんでそこいるんだ」と怒る(笑)。でもそうじゃない。ここにいて、ここに行って、ここにパスが出て、ここに来るのは決まっているから。それをやるのに頭使って、何十年もかかったわけですよ。最後の頃はチェックも一番手がこっちへ行って、二番手は余計なことをしないで行ってくれと頼みました。そこに出てくるのが分かるからね。でも、違う動きをされると困るわけです。
榛沢 そういえば日本代表で京谷と3人で組んだ時は面白かったよな。京谷には動きをいろいろレクチャーしてね。まず京谷に行かせる。こぼれ球を狙ってオレが行って、後ろに好男がどこに来ているかを確認しながら、拾ったら好男へ出す。
星野 京谷にはとりあえず行け。但し、単にまっすぐ行くのではなく方向付けを重視しましたね。どっちでも良いからまず方向付けをしろと。そうすると次に榛ちゃんがガーンと行くから。そうなるとオレのところへパックは出て来るわけ。それは楽しかった。
榛沢 京谷には、「絶対に逆をつかれるな」と言ったね。逆をつかれなかったら2番手が必ず読んで行くから。それであいつが行って、オレが拾いに行って、高い所にスーッと入って来る好男を見つけて出していた。
星野 本当、面白かった。日本代表ではコーチから言われたのは「誰と誰が組め」まで。あとは自分たちでいろいろ考えた。
榛沢 全体的なことは監督やコーチがやるけど、FW3人とか、DFとのコミュニケーションはセットで、「こういうふうにやるから、ここを押さえておいてくれ。下がらないでよ」とかを話し合った。
星野 DFは下がらないでとかね。チームとして全体の話はした。別に変わったことをやるわけではない。
セットに関してはいつも話してやっていた。自分たちが攻めている時、守っている時にはこうやろうとか。攻め出しはこうだよとか。DFは榛ちゃんを狙ってこう渡せ。そこは京谷じゃないぞ(笑)。京谷には渡さなくて良いから、榛ちゃんに渡したら、オレが合わせて行くから、そうしたらお前(京谷)は走って来い。その代わりオフサイドするなよ。そういうことを考え、話し合っていました。それが1つのセットです。そしてそれが点につながるわけ。
現在の現場のことは分からないけど、そういうことを今はどうなっているのかな? とは思うよね。
榛沢 いつだっけ? オレとお前と得点とアシストで争ったのは。2人で組んでいて、世界選手権であったよな。
星野 普段は違うチームだけど、日本代表に行くと、いつもそうやっているから、お互いに自然にここに来るなと思うわけだよね。
榛沢 オレが日本代表でキャプテンやっている頃は、まずはチームをまとめなければならない。次に一番上手い選手を生かすことを考えていた。一番上手い選手が活躍できなかったら日本は勝てない。好男に大活躍してもらわないと日本は勝てない。好男を生かすためにはどうするか。それをいつも考えていた。
星野 当時は良い選手がいっぱいいたよ。良い選手というか真面目だったのかね(笑)。
<写真:#2エドノバック(古河)と競り合う#16星野好男(国土計画)>
- 昨今のプレーについて
- 「昔は他人を生かすことも知っているし、自分が生きることも考えていた。でも今は自分が生きていることだけを考えている感じ」(星野)
世界を知る2人には現在のプレーヤーたちはどのように映っているのだろうか。「成長してほしい、世界に高いレベルで戦ってほしい」という期待があるからこそ、厳しい意見が出てきた。
――現在のプレーを見てどう思われますか?
榛沢 日本代表もチラチラ見たりもしたけど……。
星野 今の選手はみんな上手いんだよね。
榛沢 みんな上手いのだけども、同じようにやっている。
星野 みんなテクニックもあるし上手いので、自分の好きなようにやっている感じ。ただ、今は極端な話、昔と違ってちょっと触っただけで反則でしょ。そんな中、オレが一番嫌いなのは、つっかけられて転んでいるでしょ。痛かったら上がれよと思うよね。
それとプレーを見ていても面白くない。ぶつからないし、みんな好き勝手にやっているけど、そうではないと思う。タイミングをずらすとか、いかに自分たちのスペースを生かしてゴールへ行けるかをもっと考えてほしい。
それともう一つ、「ゴール前」とよく言うけど、シュートって、中に入らなければ、入らない。女子のアイスホッケーでよくあるけど、攻め込んで行ってゴールの周りを回っている。そんな時よく言ったけど、「回っているのではなく回されている」と。周りを回っているだけでは得点にはならない。得点をするにはどこかで勝負して中に入らないとダメ。
ぐるっと回ってキープしています。それはキープしているのではなく、キープさせられている。相手にとっては痛くも痒くも怖くもない。やっぱり、勝負をどこでするか。それが見ていてもあまり勝負していないんだよね。だから点にならない。
――昔は、癖のある、特徴のある選手がいましたよね。
星野 そうそう。今の子どもたちを見ていて思うけど、みんな上手いけど金太郎飴みたいで同じ。「特徴があまりないかな」とオレはずっと思っていた。自分がプレーヤーだった時に見ていたけど、みんなプレーは上手いけど何がうまいのかな? 榛ちゃんじゃないけど足が速いとか、チェックが上手いとか、シュートが強いとか、特徴があった。今の子たちはそういうのがあまりない。何やってもみんなそこそこに上手いけどね。
榛沢 オレもそう思う。オレらの時代よりみんな上手いなと思う。でも試合巧者にはなれていない。
星野 一人一人が集まって3人になったらすごく強くなるけど、今は一人一人は上手いけど、3人になったらどうなるのかなと言ったら、それほど大したことがないと思えてしまうでしょ。
――昔は1+1が2ではなく3にも4にもなり、場合によっては5にも6にもなった?
星野 他人を生かすことも知っているし、自分が生きることも考える。でも今は自分が生きていることだけを考えている感じ。
榛沢 プレーを見ていてそういうふうに見えるよな。上手いなあと思うのだけども、そうじゃなくて、あっちを生かせないか? こっちを生かせないのか? と思われるプレーがある。何を考えているのか分からないこともある。
星野 例えば、完全にフリーになった時、GKはどう動くか考える。今の子はフリーになったら、「シュート!」と考えている。でもオレだったら、シュートではなくてあっちが空いているのではないかなと周りも考える。
榛沢 確率の高いところへはいかない感じ。
星野 今の選手を見ていると、「自分がシュートと思ったらシュートだもんね」と思う。
確かに上手い。スピードもあるし、テクニックもあるし、訳の分からないことはやるけどね(笑)。まして、今はパスをもらった瞬間に、ダーンとぶつかったら反則。まあ、昔だったら待っていましたと、がっつりチェックされたけどね。でも今はバッチリ反則。相手の股の間を抜いたり勝手にやっている感じだけど、昔はあんなことやっていたら体ごとがっつりやられていた。でもまあ、オレらの時より確かに上手いよね。
榛沢 上手いことは間違いない。スピードもある。ただそれを生かしきれていない。そういうふうに見える。
星野 オレもそう思う。みんなでどうやったらセットが生きるかというのが感じられない。みんなが生きないとダメ。
榛沢 好男が言ったけど、フリーになったら、フリーの自分を全部出し切ろうと思うじゃない。オレらはそうではなかった。フリーになったら次のもっと大きなフリーはどこかなと周りを見ていた。
例えば、オレが右サイドからいってフリーになったとしても、それでも右サイドだからそんなに大きなフリーではない。ここから持っていって引きつけた時に、もし誰かが来たら、真ん中でフリーになる確率がどこにあるのか。なければ自分でシュート。あったらそこへ誰が詰めて来るのかを考えてプレーをしていた。今は確率で広げるというのが少ないかなと感じる。
星野 パックを持った瞬間に誰か来ないかなと考える。自分がやって、もちろんシュートもあるけど、もしかしたらこっちにいるのではないかなと考える。ところが今それを言うと、「パスを考えろと言うから考えたのです」と返ってくる。それではない。自分がやることはもちろんだけど、パスを出すことも考える。確率が高いほうを見つけ出していくこと。
それとゴールをするには中に行かいないと入らない。フェンス側を走っても点にはならない。必ずゴール前がポイント。そこで勝負しなかったら入らない。
それとパスは誰もが触れるパス。その人がゴールできるパスを出さなければダメ。パスして入らないのは自分が悪い。オレのパスが悪かったといつも思っていた。あの選手はもう少しタイミングは早い方が良いとか、遅い方が良いとか、毎回考えていた。それをやるかやらないか。自分が目立つだけではなくて、他人を生かし、それをやるか。
今の日本代表の選手がどうやっているかは分からないけど、3人いたらどうやってセットをつくるか。一人一人が考えるのではなくて、3人で考えないとセットはできない。それがセットさ。それが5人になってくるわけ。セットってそういうこと。
先ほど話したプレーを読むのも1人ではできない。一番手、二番手、三番手がやってくれたからオレが先を読んだ場所に良いポジションにいることができるわけ。他人と一緒に話してやらなかったらできない。仲間の動きを読んだりすることを考えないと、難しいんじゃないかな。
まあ、確かに今の日本代表の選手は上手いと思うよ。
榛沢 間違いなくレベルは高いよ。
星野 ちょっと見たけど高いよね。
榛沢 個々のレベルは高いよ。それが5人のアイスホッケーになっていない。
星野 それはあるね。シュートを見ていてもGKも上手くなっているけど、狙ったところへいかなければダメ。また入れると思ったら入れなければダメ。練習でもGKが上手くても、入れる時は入れなくては……。それがなくなってきていると思う。あー良いシュートだった。これで終わっている感じ。良いシュートではなくて、狙ったところにいっているか、入れるところは入れているか。
試合前の練習では、今日使うスティックで、どれだけ外れているかを考えながらシュートをしていた。このスティックは余計に曲がるなとか、これはダメだなとか。最初に必ず狙う箇所があるので最初はそこを狙い、次は反対側に打って、3発目は入らなくても自分が狙ったところへ行けばいいわけ。自分の中でシュートを修正している。オレは毎回、これをやっていた。試合前のシュートは3回やって1発目、2発目、3発目を決めていた。自分のスティックと体のコンディション、それとその日自分が興奮しているのか、意外と楽なのか。体調をはじめそれらによってちょっとずれる。今日はこれだけずれているのが分かる。そういうのを考えて練習をしないとね。
試合前の練習は入っても入らなくても関係ない。狙ったとこへ行ったかどうか。入らなくても良い。自分の思ったところに行っているかがポイント。狙い通りならOK。今日の自分の体調、スティックもね。
榛沢 試合前のシュート練習は自分の技術確認だもんな。スライドシュートして自分の狙ったところへ行ったか行かないか。
星野 シュートして、入ったかは関係ない。自分が思ったところへ行くかどうか。自分の確認だよ。
榛沢 試合前の練習はGKのためにやるのも一つの目的だけど、自分のコントロールの確認も目的。
まあ、話を戻すけど、今の選手は自分自身が生きようとするのが強いような気がする。「他の選手を生かせ!」と言いたい。それができたら、結果的に自分が生きてくるはずです。
オレが好男と組んでいる時は、それが基本。好男を生かす。そうすれば次にオレを生かしてもらえる。これが大きなところだったね。まあ、オレも好男も同じ考えでやっていたからね。
星野 オレがなんでアシストが多いか。良いパスをしなかったらゴールには入らない。パスして入らないのは、オレが出したパスが悪いから入らないと思っていた。オレはパスというのはGKを引きつけて、単に触ればゴールに入るようなパスをずっと考えていました。
自分で入れる気になれば入るよ。でもやっぱり、より確実に入れるためにはパスをする。オレはパスをして、ミスして入らなかった時、オレのパスが悪いから入らないと思っていた。ゴールをミスしたら、「オレのパスが悪かった。ごめんね」と思っていた。アシストが多いということはそういうことです。
榛ちゃんが必ずくれるのを分かっていたから、いかに前を見て周りを開けたところでもらいたいなあと思った時にキュッと来るから、次に行ける。そこでなんとか自分がやりたいとか、もっと走りたいとかする選手がいると(笑)、何もならないわけ。そこで終わりよ。
榛ちゃんはそれができた。オレがもらっていって、必ず最終的に苦しくなって見ると来てくれる。そういのをいかに考えるかというのがチームだと思うよ。
まあ、個々の選手はみんな上手くなっている。でもつながりがないというのはそこ。「オレが、オレが」は良い面もあるけど、「オレが、オレが」の主張が多すぎる感じがする。
榛沢 その強さは悪くないけど、もう少し、他人を生かすことを心掛けてほしい。
星野 生かす、生かされる。
榛沢 生かしたら生かされるから。そういう部分がもっと必要なのかなと思うよ。
1970年代後半、世界のトップグループ入りが目の前にあった男子日本代表。その頃の選手は、一癖も二癖もある特徴のある個性的な選手が多かったように思われる。その一方で現在の選手は、個々のレベルは当時より上がっているものの、欠点の少ない平均的な選手が多いのではないだろうか。
男子日本代表の全盛期に世界と戦っていた榛沢氏と星野氏は、現在の選手たちにあえて厳しい言葉を投げかけレジェンド対談は幕を下ろした。