1994-1995シーズン

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1994-1995シーズン

【1994-1995総括】

1994-1995シーズンを語る上で、大きな出来事としてあげなければならないことは、昨年度発足した日本アイスホッケー活性化委員会の協力を得て実現した日本リーグへの日系人選手の採用と思われます。日系人選手が日本人へ帰化したのちには、日本代表メンバーの一員として活躍してくれるものと思われます。長野オリンピックの強化策の一つであることは間違いありませんが、日本リーグ各チームの戦力もアップし、勢力図が変化する可能性も考えられました。
活性化員会では「日本リーグへの外国人選手の解禁」についても討議されました。当初の予定では1996-1997シーズンからの解禁となっていましたが、1994年11月29日の活性化員会で、「外国人選手解禁は1シーズン前倒しして95-96シーズンから。各チーム2人まで」の案が決まりました。活性化委員会は決定機関ではないため、この案が日本アイスホッケー連盟(日ア連)へ提案され、正式決定の運びとなり、12月12日の日ア連理事会で承認され、95-96シーズンから外国人選手の解禁が正式決定されました。
第29回日本リーグに関しては後述するとして、まずは強化策について。カナダアイスホッケー連盟の協力を得た夏のジュニア強化合宿も3シーズン目を迎えました。今回の長野オリンピック強化指定ジュニア選手合宿はデーブ・キング氏、ウォーリー・コザック氏らを迎え、ジュニアレベルの向上と選手の発掘、強化育成を図りました。選手強化と同時にコーチングレベルの向上も図りました。
この夏合宿や学生選抜合宿などのジュニアプログラムを通し、メキシコカップ(昨季までのパシフィックカップ)、世界ジュニア選手権Bプール、ユニバーシアード冬季大会、アジア・オセアニアジュニア選手権などに選手を派遣しました。また国内では18歳から22歳までの日本リーグ6チームの所属選手を対象に、各地の高校選抜や日本リーグチームなどと11試合を行った教育リーグも行いました。
女子に関しても国際アイスホッケー連盟(IIHF)主催の第1回パシフィック女子選手権に参加しました。長野オリンピックを目指したチームづくりに取り組んでおり、夏には帯広で強化合宿、大会前にはカナダ合宿を行い、大会に臨みました。
長野オリンピックへ向け、強化が進む一方で世界情勢も大きく動きました。1994年9月28日から10月2日までフィンランドで開催されたIIHF準年次総会で「長野オリンピックへのNHLが参加」に関して、NHLとIIHFとの合意が承認されました。実施内容などの細部の詰めや、NHLPA(選手会)との合意などは今後の調整や決定となりますが、NHLとIIHFの合意決定により「ドリームチーム結成」に一歩前進しました。さらに、今後の決定とされていた長野オリンピックの参加チームの決定方法や試合方法などが1995年5月にフィンランドで行われたIIHF総会で決まりました。NHL選手が参加するにはNHLPAの賛同を残すのみとなりました。
1998年2月7日に開幕する長野オリンピック。1995年5月14日には長野市と渋谷駅前には「オリンピックまであと1,000日」のカウントダウンボードが公開されました。また同日には、長野オリンピックのアイスホッケーのメイン会場であるビッグハットが完成しました。長野オリンピックに向けて選手強化はもちろんですが、機運醸成に一段と拍車がかかることになりました。
さらに、メディアの動きも活発となりました、CS放送局のスカイAが日本リーグレギュラーリーグ60試合とプレーオフ5試合の全95試合を放映しました。また専門誌であるアイスホッケー・マガジンがこのシーズンから年間12回発行の完全月刊誌となりました。

【1994-1995日本代表】

長野オリンピックへ向け若手の強化が進められていますが、日本代表の戦いも世界を相手に厳しい戦いを繰り広げていました。世界選手権Bプールでの戦いが1994-1995シーズンの目標であり、重要視される戦いとなりました。
日本代表の編成・始動としては1995年1月27日から30日まで韓国・ソウルで行われた第3回アジアカップとなりました。大会前にこの大会に参加するカザフスタンと強化試合を行い、1勝1分の結果を残した日本代表。カザフスタンが「ナショナルBチーム」とも思えるレベルであっため、「アジアの盟主の座」を守ることも可能かと思われました。しかし結果は違っていました。初戦の韓国に6-2、第2戦の中国に7-4で勝利した日本。カザフスタンも2連勝しており、「盟主の座」を賭けての全勝対決となりました。終盤まで2-2の同点でしたが、得失点差で2点のリードを許していたため、勝たなければ優勝がない日本は、6人攻撃を仕掛けましたが、逆に失点し2-3で敗れ、「アジアの盟主の座」から転落となりました。
日本リーグ、全日本選手権、アジアカップなどの試合を経て編成された日本代表は、1995年4月12日から21日までスロバキア・ブラチスラバで開催された1995世界選手権Bプールに参加しました。
初戦のデンマークに1-5、第2戦のスロバキアにも3-9で敗れ、2連敗スタートとなりました。第3戦のルーマニアに8-2と勝利し、一息ついた形になりましたが、第4戦のオランダに3-4で敗れ一歩後退。第5戦のイギリスに4-3で勝利。第6戦のラトビア(2-15)、第7戦(最終戦)のポーランド(5-7)に2連敗し、2勝5敗。何とか6位に踏みとどまり、Cプール転落の最悪の結果からは逃れました。

ジュニア日本代表は1994年12月27日から1995年1月5日までフランス・ルーアンなどで開催された1995世界ジュニア選手権Bプールに参加しました。大会前にフランス・アルベールビルで合宿を行い、フランス代表と2試合行い大会に臨みました。この合宿で選手の大半がインフルエンザにかかり、体調不良の状態で大会を迎えることになりました。初戦のノルウェー戦(1-9)から第4戦のフランス戦(3-6)まで、4連敗と最悪のスタート(第2戦のスイス戦は1-11、第3戦のポーランド戦は0-6)となりました。第5戦のオーストリア戦になると、風邪もやっと峠を超え欠場者も一人。しかも4-4と連敗はストップしました。第6戦のイタリアには5-1と勝利をマーク。最終戦は昨シーズンCプール優勝のスロバキアと対戦。スロバキアは結果的には2位に終わりましたが、優勝の可能性もあった実力国。日本は、試合内容は良かったものの、3-7と敗れ、1勝1分5敗の7位に終わりました。3シーズン前はBプールで優勝し、2シーズン前はAプールで戦った日本。ここ2シーズンは7位と不本意な結果となってしまいました。

アジア・オセアニアジュニア日本代表は1995年3月20日から23日まで帯広で行われた1995アジア・オセアニアジュニア選手権に出場しました。この大会は当初は神戸で開催される予定でしたが、1995年1月17日の阪神・淡路大震災のため帯広に開催地が変更されました。
昨シーズン(1993-1994シーズン)3位に甘んじた日本。初戦の中国に7-0と白星スタート。第2戦は優勝候補のカザフスタンで、過去2大会は0-7、1-11と大敗していました。しかし、今回の日本はこれまでと違っていました。GKを中心によく守り5-2と快勝、最終日を待たず「アジアの盟主」を奪回、金メダルが決定しました。勝って有終の美を飾りたかったところですが、韓国に2-5と悔しさが残る惜敗、今後に課題を残しました。

ユニバーシアード日本代表は1995年2月19日から24日までスペイン・ハカで行われたユニバーシアード冬季大会に参加しました。日本のメンバー構成はオール大学生22名で臨みました。日本は初戦のチェコに3-4、第2戦の中国に2-5、第3戦のカザフスタン3-6、第4戦(最終戦)の韓国に4-5と4敗に終わりました。

長野オリンピックを目指したチームづくりを進めている女子日本代表は、1995年4月3日から8日までアメリカ・サンノゼで行われた第1回パシフィック女子選手権に参加しました。この大会はカナダ、アメリカ、中国、日本の4カ国が参加。カナダとアメリカは過去3回の世界女子選手権で上位二強を形成している世界のトップ。中国も1994世界女子選手権で4位になるなど、格上のチームが日本の相手でした。
1回総当たりのリーグ順位戦、その後、順位決定戦が行われました。リーグ順位戦で日本は初戦のカナダに0-12、第2戦のアメリカに0-14と力の違いを見せつけられました。第3戦の中国には敗れたものの1-3とこれまでの中国戦とは違った戦いを繰り広げました。順位決定戦のアメリカ戦はリーグ順位戦同様0-12と完敗。続く中国戦は0-5で敗れ、4位に終わりました。カナダ、アメリカとの力差はまだあるものの、中国との差は縮まっており、パワーをつけることにより希望が持てると実感できました。

【1994-1995主なJIHF主催大会】

第62回全日本選手権Aグループ(1995年1月10日~16日@東京)

3大会連続して日本リーグ6チームと大学2校(明治大学と東洋大学)の8チームのトーナメントで行われました。1回戦は新王子製紙が東洋大に22-0、西武鉄道が日本製紙クレインズを5-2、雪印が古河電工を3-2、コクドが明治大を4-1で下し、準決勝へ進出しました。準決勝では、新王子が3-1で西武を、コクドが雪印を4-0で決勝へ進み、2年連続同じ顔合わせになりました。決勝は3-3の同点のままサドンデス方式の延長戦にもつれ込み、決勝点を挙げた新王子が4連覇(通算30回目の優勝)を達成しました。

第29回全日本選手権Bグループは1995年2月25日から27日まで栃木・日光で16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝で八戸市庁がグリーンメイトを2-3で破り、2年ぶり2回目の優勝を成し遂げました。

第14回全日本女子選手権(1995年3月2日~4日@長野・軽井沢)

16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝に駒を進めたのは、1回戦で中日パピーレディース、準々決勝で八戸レッズ、準決勝で釧路六花亭ベアーズを破った岩倉ペリグリンと、1回戦で若戸レディース、準々決勝で軽井沢フェアリーズ、準決勝でスポーツシステムファイターズを破ったコクドレディースでした。9年連続して同じ顔合わせとなった決勝戦は、3ピリでは決着が付かず延長戦へ。延長3分56秒に決勝点を挙げた岩倉が1点を守り切り、2年連続6回目の覇権を手中に収めました。

第29回日本リーグ(レギュラーリーグ:前期1994年11月5日~12月24日・6チーム3回戦総当たり、後期1995年2月4日~3月12日・6チーム3回戦総当たり/プレーオフ:1995年3月18日~26日・5試合3戦先勝方式)

第29回日本リーグは、前後期制の導入、日系人選手の加入、土日の週末中心の試合開催、プレーオフに進出できるのは前後期の1位チームのみにするなど、これまでの日本リーグとは一新しました。この試みは観客動員数アップにつながりました。第28回日本リーグよりも約19%(23,300人ほど)増と、史上初めて15万人の大台に乗る結果を生みました。
さて、前後期それぞれ15試合の短期決戦のレギュラーリーグ。前期はコクドが3試合を残し無敗(優勝時点)で制しました。後期は西武と新王子が勝点で並びましたが、当該成績で2勝1敗と勝ち越した西武が1位となりました。
第20回リーグ以来、約10年間続いてきたが「コクド・王子の二強時代」。過去9年間で新王子が5回(王子時代を含む)、コクドが4回(国土時代を含む)、日本リーグの覇権を制し、1位と2位は両チームが占めてきました。しかし、第29回リーグは前後期制のため、後期が制した西武の2位以上となり、「コクド・王子の二強時代」に幕が下りました。
コクドと西武とで争われたプレーオフ。延長戦決着が1試合(第1戦)、PS決着が2試合(第2、4戦)、そして3ピリ決着の第3戦も1点差と死闘を繰り広げ、覇権の行方は2勝2敗のタイとなり第5戦へ。コクドが4-1で勝利し、2シーズンぶり7回目の優勝を成し遂げました。ところで、最優秀選手賞は敗れた西武のダスティ芋生(GK)が選出されました。優勝チーム以外から選ばれたのは第1回リーグの引木孝夫(王子)以来のことでした。

第50回国民体育大会(1995年1月27日~30日@福島・郡山)

成年の部は28都道府県が参加し、決勝戦で東京が青森を11-3で破り3年ぶり15回目の優勝を飾りました。少年の部では14都道府県が参加し、決勝戦で北海道が栃木を12-2で破り7年連続45回目の優勝を成し遂げました。

第67回日本学生氷上競技選手権・インカレ(1995年1月6日~9日@北海道・苫小牧)

29校が参加。決勝戦は2回戦で関西、準々決勝で東北学院、準決勝で中央を破り4連覇を目指す明治と、2回戦で日本体育、準々決勝で東海、準決勝で法政を破った東洋が3年連続して対戦。明治が試合終了2秒前に決勝点を奪い4-3で勝利し、4年連続22回目の優勝を成し遂げました。

第44回全国高校選手権・インターハイ(1995年1月20日~23日@青森・八戸)

27校が参加。決勝は4年連続して釧路江南と駒大苫小牧の同じ顔合わせになりました。駒大苫小牧は2回戦で釧路緑ヶ岡、準々決勝は白樺学園、準決勝で苫小牧南を破り決勝へ進出しました。一方、釧路江南は2回戦で八戸商業、準々決勝で八戸工大一、そして準決勝で苫小牧東に勝利し勝ち上がりました。決勝戦は駒大苫小牧が9-1で釧路江南を下し、2年連続14回目の優勝を飾りました。

第15回全国中学校アイスホッケー大会(1995年2月7日~9日@群馬・伊香保)

14チームが参加して行われました。決勝は1回戦で千葉県選抜、準々決勝で八戸一、準決勝で日光を破った苫小牧和光と、準々決勝(2回戦)で東京都選抜、準決勝で前回準優勝の八戸二を破った釧路景雲が対決。苫小牧和光が7-5で勝利し、6年ぶり3回目の栄冠を手にしました。

第19回全日本少年アイスホッケー大会(1995年3月26日~28日@北海道・帯広)

小学生の部
12チームが参加。釧路選抜は2回戦で青森県選抜、準決勝で宮城県選抜を破り決勝進出。苫小牧選抜は1回戦で栃木県選抜、2回戦で札幌選抜を、準決勝で東京都選抜を破り決勝へ進出してきました。決勝では釧路選抜が6-3で勝利し、2年連続4回目の優勝を飾りました。
中学生の部
12チームが参加。2回戦で札幌選抜、準決勝で神奈川県選抜を破った釧路選抜と、2回戦で青森県選抜、準決勝で帯広選抜Aを破った苫小牧選抜との間で行われました。決勝では釧路選抜が苫小牧選抜を5-4で破り、2年ぶり12回目の優勝を成し遂げました。

【その他の大会・出来事】

1994メキシコカップ

昨シーズンまで日本で開催されていたパシフィックカップが、1994-1995シーズンは開催地をメキシコに移し、1994年8月1日から7日まで、カナダ、アメリカ、ロシア、日本の4カ国が参加して開かれました。予選リーグ初戦において、日本はロシアに3-1と勝利。第2戦アメリカ(1-5)、第3戦カナダ(0-8)に敗れました。準決勝のアメリカ戦は1-7、3位決定戦のロシアに4-7と敗れ4位に終わりました。
日本の試合結果は次の通りです。
予選:日本 3-1 ロシア<1P(1-0)2P(0-1)3P(2-0)>
予選:日本 1-5 アメリカ<1P(1-3)2P(0-0)3P(0-2)>
予選:日本 0-8 カナダ<1P(0-3)2P(0-1)3P(0-4)>
準決勝:日本 1-7 アメリカ<1P(1-4)2P(0-1)3P(0-2)>
3位決定戦:日本 4-7 ロシア<1P(0-4)2P(1-1)3P(3-2)>

1994日本リーグ若手教育リーグ

1994年11月10日から12月8日まで日本リーグ各チームの協力を得て、日本リーグ所属の19歳から21歳までの若手選手を集めチームを結成。各地の高校選抜チームや日本リーグのチームなどと11試合を行いました。試合結果は次の通りです。
日本リーグ選抜 5-3 青森県高校選抜<1P(1-1)2P(2-2)3P(2-0)>
日本リーグ選抜 6-1 青森県高校選抜<1P(0-1)2P(5-0)3P(1-0)>
日本リーグ選抜 2-11 日本製紙<1P(1-3)2P(0-4)3P(1-4)>
日本リーグ選抜 5-2 道東地区高校選抜<1P(2-0)2P(1-1)3P(2-1)>
日本リーグ選抜 0-10 新王子製紙<1P(0-1)2P(0-6)3P(0-3)>
日本リーグ選抜 4-3 雪印・北海高校<1P(1-0)2P(1-3)3P(2-0)>
日本リーグ選抜 4-2 道南地区高校選抜<1P(0-1)2P(2-1)3P(2-0)>
日本リーグ選抜 7-3 栃木県高校選抜<1P(2-1)2P(0-2)3P(5-0)>
日本リーグ選抜 5-3 古河電工・日光高校<1P(3-2)2P(1-1)3P(1-0)>
日本リーグ選抜 7-5 西武鉄道<1P(1-0)2P(2-3)3P(4-2)>
日本リーグ選抜 1-5 コクド<1P(0-2)2P(0-2)3P(1-1)>

第1版:2025年9月30日・記

<主な参考文献>
日本アイスホッケー年鑑 平成6年-平成7年 第14号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1994年12月号、1995年1月号、2月号、3月号、4月号、5月号、6月号(発行:ベースボール・マガジン社)
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