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1992-1993シーズン
【1992-1993総括】
1991年12月25日にゴルバチョフ大統領(当時)が辞任し、翌26日にソビエト連邦最高会議が連邦の解体を宣言したことで起こったソ連の崩壊。ソ連解体の影響はアイスホッケーの世界も例外ではありません。加盟国が40カ国であった国際アイスホッケー連盟(IIHF)も1年にして加盟国が50カ国に増える事態になりました。その結果、勢力図などが大きく変わり始めました。
世界選手権Aプールには1992年からソ連を引き継いで「ロシア」は参加していました。旧ソ連の国々が世界選手権に参加したのが、このシーズンの1993年の世界選手権からでした。Cプール参加のための予選に参加したのはラトビア、エストニア、リトアニアのバルト3国に、ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシの計6カ国。予選の結果としてラトビア、ウクライナ、カザフスタンが1993世界選手権Cプールに参加しました。またチェコスロバキアも1993年1月1日にチェコ共和国とスロバキア共和国に分離。チェコはAプールに、スロバキアはCプールに参加しました。
Cプールからの参加となったラトビア、ウクライナ、カザフスタン、スロバキアですが、当時は日本と同等以上の強国と思われました。世界の国々を相手に厳しい戦いが続く日本。1998年の長野オリンピックホスト国としても、今まで以上の強化が求められました。
日本アイスホッケー連盟(日ア連)は長野オリンピックも見据え、積極的なプログラムを実行しました。NHLの名GKパトリック・ロワの育ての親でもある名伯楽のフランソワ・アレール氏(当時、モントリオール・カナディアンズGKコーチ)による若手の有望GKを対象にした特別合宿を帯広で開催。またウラジミール・ボゴモロフ氏とIIHFの協力を得て北海道の高校の選手やコーチのクリニックを苫小牧で実施。さらに第2回パシフィックカップを8月に東京で開催するなど、国際的なジュニア強化プログラムを行いました。
大学の強化としては、夏休み期間を活用してカナダ合宿と強化試合を実施。これには91-92シーズンまでの10シーズンに渡りチームカナダの監督を務め、92-93シーズンからNHLのカルガリー・フレームスの監督に就任するとともに日本のアドバイザリースタッフにもなったデーブ・キング氏の協力を得て行われました。また高校生のプログラムにおいてもハバロフスク遠征や東日本選抜合宿など、積極的に実施しました。
さらにコーチのレベルアップも図るべく、ドイツで行われたIIHF国際コーチシンポジウムにコーチを派遣し、コーチ指導書の作成にも取り組みました。
これら若手の強化は単年度の終わらせることなく継続的に続けることが重要でした。冨田正一・日ア連専務理事(当時)は日本アイスホッケー年鑑 平成4年-平成5年 第12号のシーズン総括で「関係者がお互いに力を合わせ、協力していく以外には不可能でしょう。ネバーギブアップをスローガンに頑張りましょう」と継続的に続けていくため、関係各位に協力を求めました。
【1992-1993日本代表】
1994年のリレハンメルオリンピック出場を目指す日本代表。そのためには、まずは1993年夏に行われるリレハンメルオリンピック最終予選の参加資格を得ることでした。最終予選の参加資格はオリンピック開催国のノルウェーを除く1993世界選手権Aプール最下位国(当時。のちにこの枠はスロバキアとなった)、1993世界選手権Bプールの1、2位国(アジアカップ出場国を除く)、1993世界選手権Cプール優勝国(アジアカップ出場国を除く)、アジアカップ優勝国の5カ国。日本代表にとって1993年3月25日からオランダ・アイントホーヘンで行われる1993世界選手権Bプールを前に、札幌で2月25日から28日まで開催される「第2回アジアカップ」で優勝することが必須の命題でした。
日本代表は2月15日から札幌合宿をスタートさせ、アジアカップに参加。その後、カナダ代表と強化試合(4試合)を行い、世界選手権に臨むスケジュールを組みました。
中国、北朝鮮、韓国、そして日本の4カ国が総当たりリーグ戦で覇権が争われたアジアカップ。日本代表はこの時点でのベストメンバーで臨みましたが、日本以外の3カ国は将来を見据えた若手を中心としたチーム編成でした。そのため日本との力差は大きいものでした。第1戦の韓国は9-0、第2戦の北朝鮮は6-2、第3戦の中国には11-1と3戦とも日本が圧勝。優勝を飾るとともに、リレハンメルオリンピック最終予選の出場切符を手にしました。
アジアカップからほぼ1カ月後の3月25日から4月4日まで行われた1993世界選手権Bプール。日本は初戦のルーマニアに8-1、第2戦のブルガリアに7-1と2連勝の幸先の良いスタートを切りました。第3戦の相手・イギリスは前シーズン、Cプールで優勝。この大会でもAグループから降格してきたポーランドを破るなど、日本同様2連勝と勢いがありました。日本はイギリスに常に先手を奪われ追いかける展開。1点差まで詰め寄りましたが4-5で初黒星となりました。第4戦のオランダにも3-5で敗れ2勝2敗のタイ。続く中国(第5戦)に8-3と勝利したものの、ポーランド(第6戦)に1-7、デンマーク(最終戦)に3-9と2連敗。終盤に息切れした結果の3勝4敗の5位に終わりました。
ジュニア日本代表は81-82シーズンから世界ジュニア選手権(Bプール)に参加し「Aプール入りは近い」と言われ続けてきましたが、実現には至りませんでした。しかし、前年シーズン(91-92シーズン)、悲願のBプール優勝を果たし、Aプール昇格を決めました。1992年12月26日から1993年1月4日までスウェーデン・イエブレなどで行われた1993世界ジュニア選手権Aプールに参加しました。当時はBプールから昇格してきたチームはカナダやロシア、スウェーデンなどのAプールトップクラスと対戦すると10点差以上の大敗は珍しくありませんでした。日本も例外ではなく、初戦のロシアに0-16、第2戦のフィンランドには0-7、第3戦のアメリカは2-12、第4戦のスウェーデンには1-20、第5戦のチェコは2-14、第6戦のカナダには1-8とAプールが「定位置」の国には大敗の6連敗でした。しかし、これは大会前から想定していことであり、日本ジュニア代表の目標は「Aプール残留」でした。A残留を賭けたドイツ戦(最終戦)。立ち上がりからドイツにペースを握られ追いかける苦しい展開。3ピリ後半に反撃を試みましたが、2ピリまでの失点が大きく響き3-6と敗れ、Aプール残留の目標は果たせませんでした。
ところで、世界ジュニア選手権Aプールは、各国の成績も注目されますが、国に関係なく選手個々にも熱い視線が注がれていました。当時NHLは24チームで構成されていましたが、全24チームからスカウトマンが訪れ、その数はプレス向けに発表されている人数だけで70人以上で、各選手をチェックしていました。この時の注目選手は、ロシアのアレクセイ・ヤシンとスウェーデンのピーター・フォースバーグらでした。特に、ヤシンは大会参加が遅れたため、「ヤシンは? いつ来るのだ」の声がスカウトマンから聞かれていたほどでした。
アジア・オセアニアジュニア日本代表は1993年3月6日から12日まで韓国・ソウルで行われた1993アジア・オセアニアジュニア選手権に出場しました。参加国は韓国、中国、カザフスタン、オーストラリア、そして日本の5カ国で、1回戦総当たりのリーグ戦で行われました。前シーズンまではアジア・オセアニアのカテゴリーでは日本が過去9大会中8回優勝しており(1回は中国)、実力的には頭一つ抜けている状況でした。しかし、今大会から旧ソ連のカザフスタンが参加。ナショナルチームの実力から想定すると、このカテゴリーでも実力は十分で、カザフスタンに勝たなければ優勝は難しいと思われていました。実際、日本はオーストラリアに43-0、中国に11-0、韓国に11-2と圧勝したものの、3試合目で対戦したカザフスタンには0-7と敗戦。3勝1敗でカザフスタンに覇権の座を渡してしまいました。
ユニバーシアード日本代表は1993年2月5日から13日までポーランド・ザコパネで行われたユニバーシアード冬季大会に参加しました。日本のメンバー構成は日本リーガー9名、大学生13名でした。大会参加国はロシア、カザフスタン、スロバキア、ポーランド、韓国、日本の6カ国。1回総当たりのリーグ戦で行われました。日本は初戦のポーランド(8-6)と第3戦の韓国(4-2)に勝利しましたが、第2戦のスロバキア(3-7)、第4戦のカザフスタン(1-6)、第5戦(最終戦)のロシア(1-10)に敗れ、2勝3敗の4位に終わりました。
【1992-1993主なJIHF主催大会】
第60回全日本選手権Aグループ(1992年9月27日~10月3日@東京・東伏見アイスアリーナ)
60回記念大会となった全日本選手権。日本リーグ6チームに加え大学代表2校(明治大学と法政大学)の8チームのトーナメント方式で行われました。
1回戦の組み合わせは、前回優勝の王子製紙対法政大、十條製紙対コクド、西武鉄道対古河電工、前回準優勝の雪印対明治大でした。王子は法政大に12-2、コクドは十條に5-2、西武は古河に6-0と勝利し、準決勝に進出しました。1回戦の残る1試合は、日本のアイスホッケー史に残る結果となりました。明治大が雪印を4-3で破ったのでした。当時、日本リーグ勢とそれ以外のチームとの力差は格段の違いがあると見られており、「雪印勝利」と大方が思っていました。しかし、結果は違っていました。闘志をむき出しに積極的に動いた明治大は、先手を奪うと2ピリ後半まで3-0とリードしました。2ピリ終盤に2点を失い1点差に詰め寄られ、さらに3ピリの立ち上がりに同点に追い付かれ、「ここまでか」と思われました。しかし、明治大は必死に守り、雪印に逆転弾を許すことなく、3-3のまま持ちこたえましました。そして試合終了5分前に決勝弾を決め、4-3で雪印を破ったのでした。
準決勝は王子がコクドを8-5、西武が明治大を8-2で破り決勝戦へ進出しました。王子と西武とで行われた決勝戦。2-2の同点で迎えた2ピリ終了13秒前に王子が勝ち越し点を挙げ、さらに試合終了間際には6人攻撃を仕掛けた西武の無人ゴールに得点。4-2で勝利し、2シーズン連続28回目の優勝を飾りました。
第27回全日本選手権Bグループは1993年3月19日から21日まで群馬・伊香保で16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝で八戸市庁がスギウライーグルスを4-1で破り、初優勝を勝ち取りました。
第12回全日本女子選手権(1993年3月18日~21日@八戸・新井田インドアリンク他)
16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝に駒を進めたのは、1回戦でKOBEポートアイランダース、準々決勝で釧路ファニーダックス、準決勝で帯広太陽を破ったコクドレディースと、1回戦でハセガワウィッチーズ、準々決勝で札幌ブルドッグファイターズ、準決勝で釧路六花亭ベアーズを破った岩倉ペリグリンでした。7年連続して同じ顔合わせとなった決勝で両チームは一歩も引かず、2-2のまま勝負の行方はPS戦にもつれ込みました。コクドレディースがPS戦を1-0でものにし、3年ぶり6回目の栄冠を手にしました。
第27回日本リーグ(レギュラーリーグ:1992年10月10日~12月20日・6チーム6回戦総当たり/プレーオフ:1993年1月9日〜17日・5試合3戦先勝方式)
第27回日本リーグは各チーム30試合のレギュラーリーグとプレーオフ(5試合3戦先勝)で行われました。プレーオフに進出できるのは第26回日本リーグ同様にレギュラーリーグ1位と2位となりました。
第26回日本リーグまでは王子製紙とコクドが1、2位を占め、「二強時代」を形成してきました。しかし、第27回日本リーグではレギュラーリーグの結果としては、コクド(1位)と王子(2位)が上位を占め、プレーオフはこの2チームよって争われました。しかし、3位の西武鉄道が2位王子に勝点で1差まで迫りました。
レギュラーリーグ1位・コクドと2位・王子とで争われたプレーオフ。初戦は延長でも決着がつかず、プレーオフ史上初のPS戦決着となりコクドが先勝(4-4/PS1-0)。第2戦もコクドが延長戦を制し(5-4)、優勝に王手を賭けました。第3戦は王子が勝利しましたが(4-2)、第4戦は3度目の延長戦(PS戦を含む)をコクドが2-1で制し、2年連続6回目の優勝を成し遂げました。
第48回国民体育大会(1993年1月29日~2月1日@青森・八戸)
成年の部は28都道府県が参加し、決勝戦で北海道が東京を3-2で破り4年ぶり24回目の優勝を飾りました。少年の部では14都道府県が参加し、決勝戦で北海道が栃木を10-3で破り5年連続43回目の優勝を成し遂げました。
第65回日本学生氷上競技選手権・インカレ(1992年12月20日~23日@栃木・日光)
29校が参加。決勝戦は2回戦で東海、準々決勝で専修、準決勝で中央を破り連覇を目指す明治と、2回戦で東北学院、準々決勝で法政、準決勝で早稲田を破った東洋が対戦。明治が10-2で勝利し、2年連続20回目の優勝を成し遂げました。
第42回全国高校選手権・インターハイ(1993年1月20日~23日@北海道・苫小牧)
28校が参加。決勝は2年連続して釧路江南と駒大苫小牧の同じ顔合わせになりました。釧路江南は2回戦で苫小牧工業、準々決勝は釧路緑ヶ岡、準決勝で苫小牧東を破り決勝へ進出しました。一方、駒大苫小牧は2回戦で北海道桜ケ丘、準々決勝で軽井沢、そして準決勝で釧路工業に勝利し勝ち上がりました。決勝戦は釧路江南が3-2で勝利し、初優勝を飾りました。
第13回全国中学校アイスホッケー大会(1993年2月6日~9日@山形・山形)
14チームが参加して行われ、決勝は2年連続して同じ顔合わせの釧路鳥取と苫小牧啓明の対戦となり、釧路鳥取が6-3で破り4年連続5回目の優勝を飾りました。
第17回全日本少年アイスホッケー大会(1993年3月26日~28日@日光・霧降アイスアリーナ他)
小学生の部
11チームが参加。苫小牧選抜は2回戦で八戸南ジュニア、準決勝で札幌選抜を破り決勝進出。釧路選抜は2回戦で神奈川県選抜、準決勝で帯広選抜を破り決勝へ進出してきました。決勝では苫小牧選抜が5-4で勝利し、2年連続14回目の優勝を飾りました。
中学生の部
12チームが参加。2回戦で東海・信越、準決勝で帯広選抜を破った釧路選抜と、2回戦で千葉ジュニアペンギンズ、準決勝で札幌選抜を破った苫小牧選抜との間で行われました。決勝では釧路選抜が苫小牧選抜を3-1で破り、4年連続11回目の優勝を成し遂げました。
【その他の大会・出来事】
1992パシフィックカップ
ジュニア強化の一環として1992年8月1日から4日まで東京で行われた1992パシフィックカップジュニアトーナメント。カナダ、アメリカ、ロシア、日本の4カ国が参加し、1回総当たりのリーグ戦で行われ、1位・カナダ(3勝)、2位・ロシア(2勝1敗)、3位・日本(1勝2敗)、4位・アメリカ(3敗)の順位となりました。日本の試合結果は次の通りです。
日本 4-7 ロシア<1P(1-2)2P(2-5)3P(1-0)>
日本 1-5 カナダ<1P(0-1)2P(1-3)3P(0-1)>
日本 6-5 アメリカ<1P(1-3)2P(1-0)3P(4-2)>
NHLからドラフト指名
1992年6月22日にカナダ・モントリオールで行われたNHLドラフト会議。日本のアイスホッケー界にとって歴史的瞬間が11巡目に訪れました。名門モントリオール・カナディアンズが1993年4月に釧路緑ヶ岡高校からコクド入りした三浦浩幸を260番目に指名したのでした。264人中の260番目とはいえ、日本人がNHLからドラフト指名されたのは、三浦が初めてでした(日本に帰化する前に指名された選手を除く)。
プレシーズンマッチながらNHL初の女性プレーヤーが登場
92-93シーズンからNHLに加盟したタンパベイ・ライトニング。タンパベイ所属のマノン・ロームが注目されました。ロームは北米四大プロスポーツ(MLB、NFL、NBA、NHL)初の女性プロプレーヤーとして、プレシーズンではありましたが、1992年9月23日、対セントルイス・ブルース戦に出場したのでした。
第1版:2025年9月30日・記
- <主な参考文献>
- 日本アイスホッケー年鑑 平成4年-平成5年 第12号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1992-1993 No.1、2、4、5、7、8(発行:ベースボール・マガジン社)